康安殿(カンアンデン)——



取り次ぎの内官が、王様へ俺の来訪を告げた。





少し待たされたが、無事に中へ通される。






康安殿の中庭。



その中程へ据えられた大岩に、主君がこちらへ背中を向けて静かに座っていた。



肩は力なく落ち、背中は緩んで丸みを帯び……俺の目に映るその姿に覇気は無く、常より一回りも二回りも小さく見えた。




王様をお慰めする……果たして、俺にそんな気遣いが出来るとは思えないが——





王様が気落ちされている理由はもちろん、どんなご気性なのかも、分かっているつもりだ。



だから何を言っても…どんな言葉をかけようが、お慰めする事も、力付ける事も……出来ないだろうとも分かっている。




誰しもがそうだ。



慰めの言葉が、例えいっときの救いになったとしても、最後は己れ自身の心根で、乗り越えていくしかないのだ。



起こってしまった事をいくら悔いても、元には戻らない。



其処から何かを学び、得て、前に進むしかない。



王様とて例外ではない…そんな事は、ご自身でもよくよくお分かりのはず。



ただ、その時に……手を差し伸べてくれる誰か、支えになる何か、それがあるのと無いのとでは、全く違う。



その何かを求める事は、決して甘えではない。



依存せず、当てにせず、己れを鼓舞する材料に出来るならば——





「…王様」



俺は気持ちを定めて、主君へ声をかけた。



その無気力な背中から、お気持ちそのままの言葉が返ってくる。



「…何用だ?余を案じての訪問ならば無用だぞ」



その通り…それでも俺は言葉を繋げた。



「食事も碌にされていないとか。王妃様が大層ご心配でした。私に様子を見てくるよう、おっしゃる程に」

「無用だと申したぞ……」

「申し訳ありません。直ぐに失礼しますが……

王様。少し友として話をしてもよろしいでしょうか?」


「…友としてだと?」


「はい。王様をお慰めしようとは思っておりません。ただ、私にも思うところがございますので……お許しいただければ」



俺は頭を下げて返答を待った。




「…話してくれ」



王様は俺の方へ身体を捻り、耳を向けられる。



俺は己れの思うままに、隠す事なく話そうと決めた。




「——俺は武人です。今まで数多の戦に出て、数多の命を奪い、失うのを見てきました。それは、時に近しい仲間や部下達でした。多くは俺が指揮官として赴いた戦場です。戦場ではみな、必死で命の遣り取りをします。敵も、味方もです。

戦というものは、戦略や形があります。出陣を重ねれば、それなりに流れも見えるようになってくる。敵と相対する時も…どう動けばいいか、どう剣を振るえばいいか、何処を斬ればいいのかも……分かってきます。


ですが、慣れません。


1人でも多くの敵の命を奪い、大将首をあげる事…それが我々武人の務めです。もちろん戦います。戦場では、殺らなければ殺られますから。ですが……それに慣れる事はありません。いえ、慣れたくないのだと思います。故に、みな心を無にして——例え斬られても、その痛みすら感じない程に、己れを忘れながら戦うのです」


「……其方らを前線に出して、余は常に王宮で安穏としておる。酷い話だな……」



王様は静かに、消え入るようにおっしゃる…



「いいえ。王様は国を統べる君主です。我々は国の為に命を張っていますが、王様はたったおひとりで、その重圧に耐えていらっしゃる。多くの者の命を背負っておられると、分かっておいでです。


……残念な事に、俺が赤月隊にいた頃の王は、その重みを全く分からない人物でした。あの王のせいで、俺は大切な仲間を大勢失い、師を目の前で殺されました」





一瞬、その場の気が冷えた。



王様が息を吐きながら呟く。




「余の兄だ……まこと、其方らに合わせる顔が無い」



遠慮なく吐き出した俺の言葉は、無礼極まりなく——


友としてとはいっても、今の王様の心にどれほど突き刺さっただろうか……それでも、俺は続けた。



「はい。俺にとっては仇です。それだけは、決して変わる事はない。今でも恨んでおります。

ですがあの時……私の師は、そうなると分かっていて、自ら王の剣を胸に受けたのです。己れが死ぬ事で、みなを護ろうと。


当時は理解出来ませんでした。師をはじめ、あの場に居た者達なら、王を斬り捨て粛正する事など容易かった。でも、師はそれを良しとせず、命を捨て、後の全てを俺に託しました。みなで死ぬのではなく、みなで生きる道を選べと……


ですがそれは、俺には耐えがたい苦痛でした。師を恨めしく思った事もあります……でも、俺にも多くの護るべき者達が出来ました。故に今は、師の想いがよく分かるようになったのです。大切なものの為に己れの命を懸ける事。それこそが、真の命の使い方だと。師はそれを、身をもって示してくれたのだと…思っています」



「…ドチもそうだと言うのか?余を守る為に、己れの命を使ったと?」



王様が赤い目を潤ませながら、真っ直ぐ俺をご覧になる。



その唇は微かに震え、絞り出した声は苦悩に満ちていて——





…ああ、アン内官。



何故ですか?


何故、この方を置いて逝かれたのですか……



あの場に居ながら、俺は何故お護り出来なかったのか。


もっと早く、俺が動いていれば。


いや、内々になどと言わずに止めていれば……




このような主君の姿を見、俺自身の後悔も相まって、胸底が慟哭する。




「…出立前、アン内官は俺に言い残されました。必ず王様をお側でお護りする、と。武芸など嗜まない、内官のあの方がです……

アン内官にとって大切なものは、もちろん他にもあったでしょう。でも、あの場で王様をお護りする事……それが、あの方の選択だった。


誰しもが、大切なものの為に戦います。戦場では常に当たり前の事です。その為に命を落とす事になったとしても、その重みを理解してくれる人が…背負っていく覚悟を持つ主君が居れば、全て報われる。王様は、その覚悟を誰よりもお持ちだと……俺は信じています」






「余は……余の命は、ドチをはじめ、数多の命の上に護られている……そうだ、そうであったな……」




はらはらと涙を流しながら、王様がうわ言のように…それでも、しっかりと目を開いておっしゃるのへ、



「いささか喋り過ぎました。お許しください……失礼いたします」



俺は一礼し、御前を辞そうと後ろへ下がった。






そこへ、





「——其方にも済まぬ事をした。許せよ、チェ•ヨン。これからも…頼む」




しっかりと意志を持った主君の声が、真っ直ぐに俺の耳に届いた。

——駄目よ。このまま落ち込んでても、何も変わらないわ……



小一時間ほど悶々と悩んだ挙句、当たり前の答えに辿り着いた私は、掻きむしってボサボサの頭のまま、机の前に座った。




今、私に出来る事は——




紙を広げ筆を取り、がむしゃらに書いていく。


下手くそでもいい。

忘れないうちに。

覚えてる事を全部。


年号も時系列もだいぶあやしい……それでも、とにかく書いて書いて——



私はもう一度、秘密の天の書ノートを作った。











いつのまにか、辺りはすっかり陽が落ちていた。



はた、と気づく。



あれ、オンは?ミスは?

タムが呼びに来てもよさそうなのに。



サンイが面倒みて……あ、ヨンが居てくれるから大丈夫なのかな。




ヨン……



ひとりにして、なんて言って、追い出しちゃったわね……



傷つけちゃったかな。



でも、それは私もだからね。大事なノートを燃やされて、ショックだったんだもの……




私は気不味さを抱えて、内心ブツブツ言い訳をしながら、部屋を出た。



そろそろ夕餉どきだ。


厨からいい匂いが漂ってくる……





「っぱ、っぱー!」

「そうだ、ミスャ。父はこっちだぞ」

「ミスャ〜、おっぱは、こっちだよぉー」



居間からは、ヨンが子供たちと遊ぶ賑やかな声が聞こえてくる。



私は足を止めて、その様子に耳を傾けた。




扉の向こうの幸せな光景。


見えなくても分かるわ。



私もヨンも、この幸せを守りたくて……互いを護りたくて、時に無茶をするのよね。



その為に、相手を怒らせる事だってあるんだわ。



あのノートを燃やすだなんて酷い。



ヨンが私を想ってくれる気持ちは、もちろん分かってる。


私だって逆の立場なら、同じ事をしたかも。


だから、きっとヨンも、私の悔しい気持ち分かってる……






私は自然と口元に笑みを浮かべ、居間の扉を開けた。




「あっ!ははうえ〜!」



ミスと追いかけっこ(?)をしていたタムが、真っ先に私のチマへ飛び込んで来た。


続いてミスも…



2人を受け止めて顔を上げると、ヨンがオンを抱いて、心配半分の顔で私を見ていた。



「イムジャ…」

「今日はお父様が家に居て嬉しいわね。タムァ、たくさん遊んでもらったの?」

「はい!ミスとオンといっしょに……あれ?ははうえは、なにをしていたのですか?」



不思議そうに言って、タムが小さな手を私の方へ伸ばしてきた。



その手を握りながら、



「大事なお仕事をしてたの。ごめんね、遅くなって」

「だいじは、だいじょぶですか?」

「大丈夫よ。どうして?」

「あたまが…くしゃくしゃだから」

「あ!」



慌てて髪を撫で付ける私に、ヨンが小さく息を溢して言う。



「そんな頭で何をされていたのですか?」

「フン。ヨンには内緒」

「イムジャ…まだ怒って…」

「当たり前でしょ。ショックだったんだから」

「……」





ヨンの顔色が土みたい……



気の毒になって、私は直ぐに、意地悪するのをやめた。




「嘘よ、もう怒ってない。あのね、もう一度ノートを書いてたの。忘れたくないから自分の為に。いい?私自身の為に書いたのよ。今度燃やしたら、離婚だからね」

「えっ」


「あー、お腹空いた。晩御飯何かしらね?いい匂いがしてるもの〜」

「おなかすいた〜」

「あー」




いつまでも沈んでちゃ駄目。



王妃様のご出産まで、モヤモヤしてる時間なんて無いのよ。



歴史では、難産の末に王妃様は亡くなっている……


お子様も、死産だったと伝わってるわ。



王妃様を亡くされた王様は、どんどんおかしな方向に行ってしまって、それで最期には——




……あああ、嫌だ嫌だ。でもまだ、ちゃんと覚えてる。




学生の頃は歴史に興味なんて無かった。



当たり前に習ったけど、ただ単位を取る為だけに、数字と暗号だと思って覚えただけ。



でも、今は違う。



王様も王妃様もヨンも、私にとって大切な人になってるから。


教科書に載ってる、ただの活字じゃないの。




ヨンの最期を変える事はもちろん……

王様と王妃様にも、幸せになってもらいたい。


高麗王室一のおしどり夫婦として、末長く仲良く過ごしてもらいたい。



お2人の御子を抱かせてあげたい……



その為にも、じっくり妊活を進めてきたのよ。



もともとお身体が強くはない王妃様の体質改善と、徳興君にやられた解毒もやりながら。



妊娠出産に耐えられる身体づくりを、頑張ってきたの。(王妃様が一番頑張ったわ)



悪阻や中毒症も落ち着いてきたし、逆子の心配も無さそうだし、順調にきてる。



このまま無事に出産まで……主治医の私が、しっかりしないでどうするのよ。



大丈夫。

ドチさんもきっと、守ってくれるわ。



ね、ドチさん………


興王寺での…キム上護軍による、王様を狙った謀反は未遂に終わった。



危惧していた通り、寺は怪しい輩の巣窟になっていて、キムの息がかかった者が大勢……僧や下男はもちろん、僧もどきの連中まで——



捕えた者達を取り調べたところ、首謀者はキムで、強力な後ろ盾がいたようだ、という事までしか出なかった。



そのキムの…首をはねられた遺体は、寺の裏手の山中で見つかった。


頭は、倒れている胴から離れた、茂みの向こうに転がっていたそうだ。



曲がりなりにも上護軍だったキムを、一太刀で……斬った奴が相当に腕が立つのは間違いない。



仲間内で揉めたか、それとも、もとから捨て駒にされていたのか。



更には、行方不明だった康安殿(カンアンデン)の内官も、都の外れで斬り殺されているのが見つかった。



一刀で殺られている事。そして、その斬り口を見るに、キムを斬った者と同じ者の仕業だろうという見解で——




手掛かりは全て消された状態……結局、キムの後ろにいたであろう徳興君には、辿り着けなかった。






事変から数日。




「王様はずっとご自分を責めておられる。“ドチを死なせたのは自分だ”と……

そうではないと何度申し上げても……わたくしの言葉では届かぬのだ」



呼び出され、参じた坤成殿(コンソンデン)。



予想はしていたが…王妃様から切実な言葉を聞く。



コモは王妃様のお側に控えていて、時折り飛んでくる真っ直ぐな目線と、それとは反対の冴えない表情に、どうしようもない悲しみが見え隠れしていた。



「わたくしとて、アン内官を失ったことは辛い。突然夫君を失った奥方のことも……同じおなごとして遣りきれぬ思いだ。

だが、わたくしにはこの子がいる。この子を無事に産むこと……ドチもそれを望んでいると思うのだ」



王妃様が、膨らんだ腹を愛おしげに撫でながらおっしゃる……



無礼だとは思ったが、俺はその光景を、じ…と見つめていた。



腹に子を持つ女子(おなご)の、優しげで柔らかなその仕草が、どれだけ見る者を癒すか……周りを温めるか、俺はよく…知っている。



「おっしゃる通りです。王妃様」



心底思ったままをお返しし、俺は改めて頭を下げた。



そこでなのだ、と、王妃様が続けられる。



「チェ•ヨン。どうか王様をお慰めしてはくれぬか。今の王様には、心から寄り添ってくれる腹心が必要なのだ」



王様の腹心……そう聞いて思い浮かぶ人は、もうこの世の人ではない——



「…アン内官の代わりには到底なれませんが……お訪ねしてみます」

「どうか頼む」







「——ヨンァ」



坤成殿を出たところで、コモに呼び止められた。



コモも、アン内官とは長い付き合いだった。


おそらく突然の訃報を聞いて……不死身かと思われていた叔母も、一気に老け込んだように見える。



「王様の事……頼んだよ。王様が塞ぎ込んでおられては、王妃様のお心も沈んだままだからな」

「ああ。とにかくお訪ねしてみる」

「そうしておくれ。それから…ウンスの様子はどうだ?」

「だいぶ落ち着いた……王妃様のご出産が近いから、しっかりしなければ、と思い定めたみたいだ」

「そうか、ならば良いが……もちろん無理はいかぬが、ぼちぼちと出仕させてみてはどうだ?

誰しもな、忙しくしておれば思い出さずに済む。慶事を目前にそうしておらねば、此度はちと……辛すぎるからな」

「そうだな…勧めてみる」




ウンスの気落ちも、相当酷いものだった。



しばらく出仕もままならない程に…





天の書に記されていたはずの、此度の謀反を思い出せなかった事。



ようやく思い出すも、思い出せた事が全てではなく……


王の身代わりに側近の内官が死んだ事が、全く記憶から抜け落ちていたと——



イムジャは、それはそれは己れを責めた。



俺の慰めの言葉など…それこそ何の役にも立たなかった。



むしろ、俺は……


イムジャを救うどころか、追い詰めてしまったかもしれない——




…………………………………………………




私が歴史をちゃんと覚えていたら。



ううん、ちゃんと思い出せていたら——




ドチさんは…死なずにすんだかもしれない。



今も生きて…王様の側で控えめに微笑んで、王様を支えていたはずなのに。




「私がいけないのよ…今まで何度も何度も…興王寺ってワードを聞いてたのに、何とも思わなかった……どうして思い出しもせずに、呑気にしていたのかしら。知っていたはずなのに。私のせいよ……」




興王寺の変。


ヨンが未遂に防いだ王様の暗殺計画。


私の知ってる歴史通りだわ。



その歴史の中にあった、アン内官が王様の身代わりになって死んだ事実も……



私は知ってた。

ノートにも書いてあったはずよ——





あの日。


ヨンが家に戻って来て、事の顛末を聞いた私は、王様のご無事を喜び、ドチさんの訃報に愕然とした。



そして、ヨンに詰め寄る勢いで、ヨンが没収した…あのノートを見せて、と喚いた。



ところが、ヨンが言う事には——



「申し訳ありません、イムジャ。あののーとは……燃やしました」


「えっ」


「貴女が俺の為に書き残してくださったもの……大切にしようと思っていたのですが、ふと思ったのです。俺の為にはなるが、果たして、貴女の為になるのか、と」

「どういう意味?」

「天の書が偽りでない事は、もう重々……おかげで、紅巾から高麗を護る事が出来ました。ただ、そのせいで、後々起こるはずだった出来事に変化が生じた。その事で貴女がどれだけ胸を痛めていたか、俺はよく知っています。俺は、これ以上貴女に負担を感じてほしくない。

ですから、あののーとは…在ってはならないと思いました」



淡々と告げるヨンを、私はどんな顔で見ていたんだろう。



嘘…嘘でしょ?


あのノートは……貴方を…大切な人達を護りたくて書いたのよ。



私の頭が、もやってしまうのが分かってたから、ソウルに戻ってた時に、調べて一生懸命書いたの。



それを、燃やした……?




「ヨン…まさか、本当に燃やしたの??……酷いわ!」

「すみません…俺の独断でやりました」



力無く項垂れる夫の姿に、私の身体も、何かが抜けていくようで——



「じゃあもう、本当に私の記憶に頼るしか……なくなったのね……」


「っ、イムジャ!」



足の力が抜け、崩れ落ちそうになった私を、ヨンが支えて椅子まで連れて行ってくれる。



私は、そのまま椅子に腰を下ろし顔を覆うと、気遣いの欠片も無い感情を、ヨンへ吐き出した。



「ごめん、ヨン……ひとりにしてくれる?」


「……分かりました」





バタン、と扉が閉まった音がした。




しばらくすると、扉の向こうに在った気配も消えた。





どうしよう 


どうしよう 


どうしたらいいの……




私は顔を覆ったまま、溜め息を吐き続けていた。