「左政丞(チャジョンスン)。よう来てくれた。此の所、体調が優れなかったと聞いたが……具合はどうだ?」
「恐れ入ります、王妃様。歳のせいでしょう。何事も今までのようにはゆきませず……今日は何とか出て参りました」
坤成殿(コンソンデン)にて、わしは…イ・ジェヒョンは、王妃様の御前で頭を垂れていた。
朝儀の後、宣仁殿(ソニンデン)を出た所で、内官から“王妃様が内々にお召しである”と、耳打ちされた。
「……いかな御用か?」
「そこまでは伺っておりません。チェ尚宮様より、大監(テガム)お1人でお出でいただくよう、お伝えせよ、と……」
「チェ尚宮が……」
「先生、いかがされましたか?」
わしが黙って考え込んでいると、朝廷の参議であり、弟子でもあるイ・セクが、眉根を寄せてこちらを見ていた。
「セクよ。わしは王妃様にお目にかかる故、先に行け。……ああ、供はよい」
不安気な弟子を残して、坤成殿へと向かいながら、わしは、あれこれと思い巡らせていた。
一体何事か……
王様の今朝のご様子……何やら、いつもと違ったようにお見受けした。
おそらく、王妃様のお召しは王様の事であろう。何かお有りなのか……
王妃様はまことに、王様を重んじ敬い、慕っていらっしゃる故、ご心配なのであろう。
まったく、現王妃様は稀有な御方だ。
ここ何代か、高麗の王妃には元国の姫君を、というのが通例。
それは、元国が高麗王を駙馬(ふば※婿の事)にして、この国を支配下に置く為の策——
悪しき通例に他ならない。
故に、王妃として降嫁される姫達は、そもそも高麗王を下と見て、一国の君主、夫君などと、敬う事の無いのが常であった。
ところが、この御方は違った。
何処までも王様に付き従い、高麗の水に馴染もうとされ……高麗を従える大国の姫、という傲岸(ごうがん)さなど微塵も無い。
それでいて、時には臣下が平伏す程の威厳もお持ちなのだ。
6年前、征東行省に囚われた王様を救うべく、攻めるかどうか、我らが決めあぐねていた折など、毅然として道筋をつけてくださった。
後に、「感服いたしました」と、お伝えしたのへ、「ただ夫を救いたかっただけだ。国母としては、考えものであったやもしれぬ」と、控えめにおっしゃっていた……
いやはや、お2人の仲睦まじさは、それすなわち、高麗の安寧に他ならないであろう。
であるが故に、ご懐妊が待たれておるのだが……
医仙が戻り、王妃様の主治医として、良き方向に向かっておるらしいが。
大護軍と医仙……彼奴らのところは、順調に事が成ったものを——
思わず溜め息が出た。
国王夫妻を見るに、一日も早う御子を…お世継ぎを持っていただきたい、というのは本音だ。
ただ、それだけでは済まないのが……昨今の現実でもあるのだ。
王様が、ずっと進めておられる反元政策。
高麗が元国の支配から抜け、一国としての誇りを取り戻す事。
何より、大国に頼らず、民達が安寧に暮らせる、強く豊かな国づくりを……それは、王様のみならず、我々臣下の総意でもあるのだ。
そうなると、元国の姫君との間に御子が成るのは、高麗にとっていかがなものか。
むしろ、そうならない方が良いのではないか?
そのような考えが持ち上がるのも、当然といえば当然。
尤もなだけに、厄介だ。
あの王妃様ならば、高麗を一(いち)と考えてくださるはずだが、やはり元国からの圧が無いとは言い切れぬ。
それ故に、王様に側室を勧める声も、途切れる事なく上がっており……王妃様をご寵愛なさる王様のお悩みは深い——
そんな御夫君を案じられて……だが、目の前の国母たる御方は、まず小臣の身体を気遣ってくださった。
齢70、日々の出仕もままならぬようになり、そろそろお暇をいただかねば、と考えている。
セクをはじめ、政を任せられる後進も育った。チェ・ヨンら頼れる武官もおり、王様をお支えするには十分……
いつまでも、年寄りが出張っているようではいかぬ。
暇をいただいた後は、好きな学問に親しみ、書など書き記しながら過ごしたい。
畏れ多い事だが、もはや権力闘争渦巻く朝廷から離れて、静かな余生を……
そう思うていたのに。
「人払いを。……チェ尚宮、其方もだ」
「……はい、王妃様」
王妃様が人払いを命じられ、チェ尚宮までも静かに出て行ってしまい——
今からどのようなお話があるのか……と、頭を垂れ不安を滲ませた小臣へ、王妃様が仰せになった事は———
「左政丞。其方の娘御を、王様の側室に迎えたい」
不躾にも顔を上げると、穏やかに微笑む国母が、まっすぐに己れを見据えていた。