迂達赤兵舎に居た俺の所へ、飛び込んできたイムジャ急変の知らせ……
聞いた瞬間、焼きついたように目の前が真っ白になって——我知らず、隣に居たチュンソクへ目を遣ると、
「お早く、大護軍!」
その強い言葉に押され、俺は、何の断りも入れず駆け出していた。
知らせにきた家の者も置き去り、ひとりチュホンに跨って、ひたすら駆けた。
——先程まで共に坤成殿(コンソンデン)で、王様と王妃様にタムを目通りさせて……
「タムと先に戻ってるわ。貴方も早く帰って来てね」
そう言って、笑顔で手を振り、俺を送り出してくれたイムジャ。
子育てや家の事、俺の世話に典医寺、王妃様の事……くれぐれも無理はしないでください、と言うのへ、「大丈夫よ。好きでやってるんだから」と、花の笑みで答えたイムジャ——
俺は未だ、イムジャの笑顔を理解(わか)っていないのか。
以前から……イムジャをそうるから高麗へお連れしてから……あの方の笑顔に、何度も騙されてきたのに。
涙も辛さも、笑顔の裏に隠すのがお上手だと……知っていたのではなかったか。
市井で倒れるなど、何があった?
タムや俺の為に、無理をされていたのか?
暑さにやられて、弱っておいでだったのか?
やはり、典医寺への出仕はまだ早かったのではないか?
また天の書の事で、何かお悩みだったのか?
何よりも、今朝共に出仕したのに……イムジャの様子に、体調の悪さに気づかなかった己れが、情け無くて許せない。
そして、怖ろしくてならない。
イムジャが倒れた——
マンボの宿で身を隠していた夜。盛られた毒のせいで、脂汗を浮かべたイムジャの……思わず抱き寄せた、その、か細さと冷たさ。
自ら毒を飲んで闘っていた時の、下がらない熱と戻らない意識に、祈る気持ちであの方の側を離れた事。
期せずしてソンゲに再会した時は、気を失う程に俺を想ってくれた……
もし あの方を失ったら。
その事実に 俺は耐えられるだろうか。
怖ろしい。
ただ 怖ろしくて きっと耐えられない——
............................................................
寝間の外には、若干の人だかり。
其処に居たのは——
「大護軍!」
「旦那様、お戻りなさいませ」
テマンとタムを抱いたソニと……ぶっきらぼうに片手を挙げる懐かしい顔——
「ヒジェ……お前がどうして」
「久しぶりだな、ヨンァ。詳しい話は後だ」
「旦那様。ヒジェさんが街で倒れた奥様を、お屋敷までお連れくださったんです」
「……そうなのか?……助かった。ヒジェャ」
「んなこたぁ、いいからよ。早く、」
「——ヨン? 帰ったの?」
部屋の中から愛しい声が聞こえて、俺は引き寄せられるように扉を開けた。
「…イムジャ」
「お帰りなさい、ヨンァ」
愛しい人は色味の無い笑顔を浮かべながらも、寝台から身を起こしていた。その脇にはトギが立っていて、物言いたげに俺を見ている。
(後で話がある)
手振りでそう言うと、トギは外へと出て行き、部屋の中は俺とイムジャの2人になった。
「言った通り早く帰って来てくれたのね……
じゃないか。ごめん、心配かけて。暑さにやられちゃったみたい。それまで本当に元気だったのよ?街で買い物してたら、急にめまいがして…」
聞きながらゆっくりとイムジャに近づいて、俺はその身を、ぎゅ、と抱き締めた。
「…ヨン… ごめんなさい」
俺を受け止めたイムジャの細腕が、タムにするように、背中をとんとん、と宥めた。
「……心配しました」
「うん」
「お元気だったのに、と。何事かと」
「うん、ごめん。もう大丈夫だから。ね」
「貴女の大丈夫は信用なりません」
「……大丈夫よ……」
抱き締めていた腕を緩めて、愛しい顔を…いつも以上に白いそれを見とめ、己が手で柔らかい頬を包む。
「冷たい……こんなに外は暑いのに……イムジャ、」
「暑気あたりで貧血。薬も飲んだから、少し休んだらよくなるわ。そう、ヒジェさんが助けてくれたのよ。聞いた?会った?」
「はい。今そこで会いました。詳しい事はまだ」
「びっくりしたわ。ヒジェさんに開京で助けられるなんて。こんな事もあるのね」
「イムジャ。少し寝てください」
「あ…うん。でも、」
「頼みます。俺の見てる前で、今、寝てください」
「……わかったわ。じゃあ少しだけ」
俺はイムジャの身体を寝台に横たえて、薄い布団を掛けた。脇に椅子を引っ張ってきて腰を据え、扇でゆっくりと風を送る。
イムジャは、ふわり、と笑って目を閉じた。
............................................................
イムジャが寝入ったのを確かめて、俺はそっと寝間の外へ出た。
外は夕闇が迫ってい、昼からの暑さがまだ残ってはいたが、幾分か風が出ていてそれを和らげている。
「旦那様」
頭を下げたスンオクがひとり立っていて、ゆっくりと顔を上げた。
「……お休みになられましたか?」
「ああ」
「申し訳ありませんでした。奥様のご不調に気づけず……お出掛けになるのをお止めすれば、」
「大事には至らなかったんだ。己れを責めるな」
スンオクは唇を引き結びながら、再び深く頭を下げた。
「ヒジェ達は客間か?」
「はい。皆さんお待ちです。奥様には私がついております」
「頼む」
閉めた扉の奥の、少し色の戻った妻の寝顔を想い、俺の足は客間へと向いた。