——この暑さに当てられたのだろう。軽くて幸いだったが無理は禁物だ。奥様もお忙しいだろうが、ゆっくり休養も取っていただくように——


お医者の先生は、そう言って帰って行った。


はぁーー……


それを見送り、門前で深く下げていた頭を上げながら、おれは大きく息を吐いた。


気を失った奥様が、あの大きな…旦那様の昔馴染みだという…ヒジェさんに抱えられて運ばれてきたのを見た時はもう……こっちの心の臓がどうにかなるかと思ったもんだ。


いつもはお日さまみたいな奥様が、真っ白い紙みたいなお顔で……今朝がたは、旦那様とタム坊ちゃんと、にこやかにお出かけになり、戻られてからも「また出かけてくるわ」と、お元気そうであったのに……


全く気遣って差し上げられなかった。

チェ家の用人として、なんと出来の悪いことか……おれもスンオクさんも、それはそれは己れを責めたが、奥様は「気にしないで。悪いのは私よ」とおっしゃって……ありがたくて、申し訳なくて。


ああ、でも暑気あたりで良かった。この暑さだ、無理もない。坊ちゃんを連れて王様にお会いになるなんて、気苦労もお有りだったのでは……



それにしても、と、おれは王宮のあるほうへ目を向けた。


王宮の旦那様へ知らせに走った若いのが、まだ帰って来ない……


奥様がお倒れになったと聞いたら、旦那様は、何を置いてもお戻りになるだろうに。

ちゃんとお伝え出来たのだろうか……



そんな心配をしつつ、立ち去り難くて門前をうろうろしていると、やがて激しい馬の蹄の音が聞こえてきた。


ほどなく見えてきた、白い馬に跨って駆けてくる馬上の……


ああ、旦那様だ—— 



「だんなさ…」



…ただならぬ程の人馬一体のお姿に、お迎えの声を上げようとしたおれの身体は固まり…ぐ、と絞られた喉からは、ヒュッとおかしな音がした。



鬼神——


そうだった。この頃はすっかり忘れていたが、旦那様がそう呼ばれているのを…まざまざと思い出した。


遠くからでも、とっくにおれに気づいておられる旦那様。恐ろしく怖いお顔で、おれの顔を凝視し、目を離さず駆けて来られる——


ああ…これは、目が合ってしまったら最後というやつだ。

おれは実際に見たことはないが、きっと戦さ場での旦那様は、敵や若い兵士たちからは、こんな風に見えていたのではないか——



「ギチョン!! イムジャは?!」


旦那様はチュホンから飛び降りざま、叫ぶようにおっしゃると——


何故かそのまま、おれの腕と背中へ手を回され—— ……?



「——おい、ギチョン?大丈夫か??」

「へ?」


厳しいお顔で、おれの顔を覗き込む旦那様……


おれは旦那様の鬼気迫るご様子に、気圧されてひっくり返るところを、なんと、旦那様に支えられて持ち堪えていたのだ。


いくら怖ろしいからって、旦那様に対して、おれは何という失礼を——



「もっ、もう、申し訳、ありま……」


慌てて平伏し、まともに言葉が続かないおれの様子に、


「まさか、そんなに悪いのか??」


旦那様は大変な誤解をされて、急いでお屋敷の中へ——


おれは必死で、縋るように口を開いた。



「おっ、奥様はご無事です!今は落ち着いていらっしゃいます。

先程お医者様も帰られて、今はトギさんが来てくれてます。薬湯もお飲みになられました。軽い暑気あたりだそうです」


「暑気あたり……そうか……」



立ち止まり振り返った旦那様は、幾分か安心されたように見え……いや……



すぐにまた、お屋敷の中へ向かおうとする旦那様に、おれは意を決して口を開いた。


「あっ、あの、旦那様、」

「何だ?」

「あの……そのように怖いお顔では、奥様がびっくりなさいます……どうか……」

「………」



旦那様は、じ…と、おれを見つめ……


そのお顔は、さっきまでの鬼の形(なり)は身を潜め、世の中の辛いことや厄介ごとを、あちこちから集めてきたような、不安に満ちたお顔で——



「もっ、申し訳ありませんっ!余計なことを、」


主筋に言い過ぎてしまったと、おれは再び、おでこを土に擦り付けた。


すると…旦那様がおれの前に屈んだ気配がして、



「——怖いか」

「申し訳…」

「俺も、怖い」

「えっ?」



旦那様は極小さく呟いて、おれの肩に、ぽん、と手を置いてから、今度こそ足早で奥様の元へ向かわれた。


思わず顔を上げたおれは、膝を着いたままその後姿を見送ったのだが……



おれの聞き間違いか?


今、怖いとおっしゃったような……