腹一杯乳を飲み、イムジャの腕の中で満足げな顔をしているタムを……後ろからイムジャごと抱き締めて、その肩越しに愛らしい姿を眺めていると、イムジャが何やら気になる事がある、と言い出した。
「ずっと思ってはいたんだけどね。タムも生まれたし……そろそろ変えたほうがいいと思うのよ」
「何をですか?」
それよ! イムジャが、肩に乗った俺の顔めがけ、鼻息荒く続ける。
「貴方、ずーーーーーーーっと敬語よね?」
「は?」
「出会った時からずっと。まぁ、私の方が年上だったから、何となくそのままきちゃったけど……もうやめない?ちゃんと話しましょ」
何を言い出すのかと思えば……
俺が溜め息と戸惑いを隠さずにいると、イムジャが唇を尖らせながら、
「だって……タムが聞いたら、おかしいと思うわよ?アッパがオンマに敬語なんて」
「しかし、貴女は王妃様のお命を救った…いわば国賓です。俺は、貴女に医仙の称号を授けた王様の臣下なのですよ?」
「医仙の名前はもらってるけど、貴方と結婚したんだから、もう高麗の民のひとりでしょ。左政丞(チャジョンスン:イ・ジェヒョン)もそう言ってたじゃない」
「それはそうですが……」
「もちろん、改めるのは貴方だけじゃないわ。私もよ。ヨンァなんて呼んでちゃダメなの。
んと…… 旦那様(ソバンニム)♡」
「………」
にっこり花の笑顔を向けられて、思わず固まってしまう。
旦那様か…… 悪くない。悪くはないが——
「ほら、貴方も何か言ってみて……言ってみてください、旦那様」
「イムジャ、しかし、」
「タムの為にも頑張ってください、旦那様」
「はぁ——……何を言えば?」
「そうねぇ……じゃあ、今からお互いに意識して話しましょ。今日はお休みだから、慣れるのに丁度いいわ。ね!旦那様」
……丁度良くなどありません…いや、ないんだが——
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戸惑ったのは俺だけではなかった。
スンオクやソニをはじめ、用人の皆(みな)も、誰もが目を丸めて口を開いて。
既に朝餉の時から俺達の様子がおかしいのを、不安気に見ている……
「今日は一日ヨン…んんっ、旦那様はお休みですから、タムのお世話は旦那様がしてくださいます。ううん、むしろお世話したいと、言ってくださってるの。だから、スンオクもソニもそのつもりでいてね」
「はぁ……左様でございますか……」
「そうなの。ね、旦那様」
「ああ……そのつもりで頼む」
顔には出さないまでもスンオクが、何事かと、俺へ細めた目を投げつけてくる。
ソニはといえば、
「お2人ともどうかされたのですか?……まさか、喧嘩でもなさったとか??」
タムをあやしながら、信じられない……という目で、朝餉中の俺達を眺めている。
「ヤダ、ソニャ。喧嘩なんてしてないわよ」
「ですが何やら……気まずそうな」
「そんな事ないったら〜。ねぇ?旦那様」
「そうだ、喧嘩ではない。しかし……
はぁーーーー……イムジャ、もうやめませんか?」
俺は、溜め息と共にチョッカラ(箸)を置き、イムジャに向き直った。
「何をおっしゃるのですか。始めたばかりですわ、旦那様」
「皆困っております。どう対応すべきなのかと……俺もです。今まで通りで良いではありませんか」
貴女の顔も引き攣っていますし。
見たままを伝えると、イムジャのこめかみの辺りがピクリと縮んで、
「失礼ね、そんな事な……ありませんわ、旦那様」
「いいえ。はっきり言って落ち着きません。俺達らしくもない」
「え」
「無理をしても、お互いろくなことはありません。むしろやめていただきたい……いえ、やめたいです」
そうきっぱり言い切ると、イムジャは目を瞬きながら……
「そんなに?やめたほうが良い?」
「はい。是非に」
「でも、タムの為にも他のお家みたいに、」
「、奥様」
そこへ、おおかたの事情を汲んだであろうスンオクが、僭越ながら…と、割って入って来た。
「奥様は天の御方でいらっしゃいます。御降嫁されて高麗の民になられたとはいえ、旦那様が敬われるのは当然かと存じますが」
「そうだ。そうですよ、イムジャ。俺が敬語を使うのは、当たり前の事です」
え〜…… と小さく文句を溢しながら、むくれるイムジャに、スンは続けて
「それに、奥様が尊い御方だという事は、タム坊ちゃまも知っておくべきです。父母の様子が他家のそれと違っても、致し方のない事だと……坊ちゃまならきちんとご理解なさいます。賢いお子さまですから」
ソニの腕に抱かれて、ふにゃふにゃと口を動かしているタム……飯を喰う俺達の真似をしているのか、何とも愛らしい……その様子に、スンは緩む口元を引き締めながら言う。
「スンオクったら。賢いなんて、まだわからないわよ?」
イムジャが眉根を下げて微笑むのへ、スンは大真面目な顔で
「いいえ、わかります。旦那様と奥様のお子さまです。賢いに決まっております」
すると、ソニに抱かれて俺達を眺めていたタムが、「あぅ!」と応えるように声を上げたので——
「まぁ!坊ちゃまがお返事をなさいました!」
「なんて賢くていらっしゃるのでしょう。さすがはチェ家の跡取り」
「ちょっ、ヨン、今の聞いた? あら〜お返事したの?タムァ……うふふ、もう一度言ってごらん。ん?」
大人達が己れを囲んで盛り上がっているのを、なんと見ているのか……タムは右に左に顔を向け、手も足もやわやわと動かして笑っていた。
そんなこんなで、俺達の不毛な遣り取りは、うやむやのうちに終わり——
いつも変わらぬ主人夫婦に戻ったのを見て、ギチョンがしみじみと
「いやぁ、ようございました。お2人のご様子がおかしいと何やらこう……尻がムズムズと落ち着きませんで。はい」
安堵の声は他の者達からもあがり……聞いたイムジャは、「そんなにヘンだった?」と、目を瞬いて呆然としていたが——
そんな妻も 俺は堪らなく愛しい。