今日も戻りが遅くなってしまった……
俺は、既に薄灯りの寝所へ音も無く入ると、ぐっすり寝入っているイムジャの…額にかかる絹のような髪を、そっと撫でつけた。
そしてすぐ側の、べびーべっとで静かに寝息を立てている息子の傍に立ち、その微かに聞こえる呼吸の、心地よい反復音に耳を澄ます。
……何とも愛らしいことだ。
我が子とは、このように愛おしいものか。
聞いていた話ではあったが、まさかこれほどとは——
己れの子というだけでなく、最愛の女人(ひと)との間に授かった子だ。
タムは俺とイムジャの……違う刻を生きてきた俺達の、縁(えにし)がどれだけ深いものなのか……その証ともいえる子なのだ。
それなのにこのところ、その息子の寝顔しか見られていない……
北の国境では、元や女真との睨み合いや小競り合い。南の海岸沿いでは、倭寇の被害が報告され、終わらない軍議に時を取られて、連日帰宅は深夜になってしまっていた。
「お帰りなさい、ヨンァ。いつ戻ったの?」
目覚めたイムジャが、まだ朦朧としながらも、俺へ半身を預けにくる。
「少し前です」と答えて、その柔らかな身体を抱き寄せながら、起こしてすみません、と、一応、形ばかりの詫びを口にした。
明日は久々に取れた休日だ。気持ち良く寝入っているイムジャには悪いが、起きていただき今宵は俺と……その分、明日は俺がタムの面倒をみる心積り——
…いや。その前にタムの顔を見たい……イムジャに似たぱっちりと丸い目を開いて、それがゆらゆらと揺れる様は、本当に愛らしく……
まずは息子を起こしてしまおうと、俺はイムジャの温(ぬく)い身体を引き寄せたまま、タムの餅のような頬を、指先でそっと突いた。
……すぐイムジャに止められたが。
そのイムジャは……最近の俺の帰宅が遅かった理由が思い当たるのか、表情を落として黙り込んでいる。
おそらくは“天の書”だろう。
そうるに戻られた際、学ばれたという“天の書”。ただその中には、覚えている事も、ぼやけてしまう事も、どちらもあると言う。
イ・セクなどは、王宮で顔を合わせると、型通りの挨拶もそこそこ、「奥方は何か仰っておられぬか?高麗の行く末、元国の事など」と、相変わらずだ。
歴史などというものは、往々にして残っているのは諍いの記録だ。
誰と誰が、どの国と争って、どちらが勝ってどちらが負けたのか。
強い者によって支配され、刻まれていく……後の世に伝わるのは、勝者に都合の良い歴史だ。
故に、全てが真実だとは考えにくい。
そんな不確かなものを、懸命に学ばれたイムジャ。そして、それを独りで抱え込んでいらっしゃる。
何事も隠さずに話す、と約束しながらこの方は……
しかしイムジャが話さないのは、おそらく俺の為なのだ。
黙っているという事は、俺に聞かせる必要のない事。例え悪しき事であっても、必要ならば、きっと話してくださるはずだ——
案の定、天の書を危惧するイムジャに、
大丈夫だ。俺は死なない。いつまでも貴女の側に居て、貴女をタムを、高麗を守る。
俺は負け知らずなのでしょう?、と……都合の良い所だけ天の書を使って、想いを返した。
俺へ向けられたイムジャの笑顔は…俺を安心させる為に、少し無理をしているように見えて——
俺はイムジャをそっと胸に抱き締め……愛しい温もりを包み、その唇を塞いだ。
本当は以前から、聞いてみたいと思っていた。
イムジャ。
貴女が気に病む天の書の…俺の最期はどんなものなのだろうか。
ソンゲが俺を殺す、とは——
一体いつ、どんな状況でそうなるのだろう
。
今の俺とソンゲの関わりは、良好だと思うのだが……何故、袂を分つのか。
それを知れば、避ける事が出来るかもしれない。
貴女が抱える不安を、取り除いてやれるかもしれない……
だが、貴女は何もおっしゃらない。
だから、聞くのは今では無いのだろう……
今はまだ…目の前の幸せを、噛み締めていてもいいのですよね?イムジャ。
俺は必ず この幸せを守ってみせますから———。