あれ程きつかった悪阻が、嘘のように落ち着いて……私は、戻ってきた食欲と闘う日々を送っていた。



もともと、スンオクやソニの作ってくれるご飯は美味しい。王妃様や叔母様からいただくお菓子も美味しいし、マンボ姐さんの差し入れもとびっきりで。


何より、私が食べられるようになったのを、ヨンが喜んで喜んで……毎日のようにお土産片手に帰ってくるから——



「ヤバイわ……」

「やばい?」


チェ家でのランチタイム。横で給仕をしてくれているソニが、小首を傾げている。


ソニはとても好奇心旺盛で、私がつい漏らす天界語にいつも興味津々だ。



「えーと…凄くフレキシブルな言葉でね。良い時にも使うんだけど、今の場合はあまり良くないというか、好ましくない、って感じかな」

「まぁ、申し訳ございません。お口に合いませんでしたか。実は、いつもと違う店の醬を使っておりまして……お分かりになるなんて、奥様の舌は凄いです」

「えっ……いやいや、そういうんじゃなくて」


そんなグルメじゃないの。ただ食いしん坊なだけ。はい、ごめんなさい。



此の所、体重が一気に増えた気がする。もちろん、食べ過ぎくらい食べてるからなんだけど(だって、何食べても美味しいんだもの)、

この調子でいくと、臨月には大変な事になるわ……



「お腹のお子様と2人分ですからね。お腹も空きますよ」


ソニが笑顔でフォローしてくれる。



「2人分かぁ。高麗でもそう言うのね」

「天界でもですか?まぁ、面白い」

「うん。でも、いくら2人分とはいえ、太り過ぎるとお産が大変になるから、やっぱりちょっと控えるわ。ね、スンオク。そうでしょ?」


私は、下座で控えているスンオクへ目を向けた。



妊娠が分かってから絶賛つわり中だった間、スンオクとソニは、それはそれは影になり影になり……私の一挙手一投足に手を出し、世話を焼きまくってくれた。

(それこそ、私がグロッキーな時は、スッカラ(スプーン)の上げ下げまでしてくれた)


その反動もあってか近頃のスンオクは、必要最低限、私の世話をソニに任せ、じっ…と控えて見守る体制をとっている。


「少々動かれた方が宜しゅうございます。そのほうがお産が楽になりますから」なんて言いながら、私の後ろを手出しせず黙って付いてくるスンオク……



「奥様。3度のお食事は、しっかり召し上がってくださいませ。トギさんから聞いて、必要なものを考えてお出ししておりますので。控えられるのでしたら、お菓子などの甘い物でございましょう」

「はい、その通りね……」



スンオクに至極当たり前な事を言われて、私は小さく溜め息を吐いた。


ああ、昨日叔母様にいただいた薬菓(ヤックァ)が、まだ残ってたな……と、甘い残像が頭をよぎる。


——ダメダメ。本当にダメよ。


私は頭を左右に振りながら、誘惑を払った。


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安定期に入り、胎動も感じられるようになると、ヨンが私のお腹へ話しかけるのが日課になった。


胎動……自身が初めて感じた時の感動はもちろんだけど、初めてそれがヨンに伝わった時の…あの人の嬉しそうな顔ったら——


ああ、高麗に戻って来られて本当に良かった、と……


私は嬉しくて嬉しくて、泣いてしまった。



「離れていた間も、貴女との縁を疑った事などありませんでしたが——」


ヨンが私を後ろから抱きしめて、膨らんできたお腹へ手を当てながら言う。


「改めて感じます。貴女と俺の縁の深さを。

この気持ちを、何と表したら良いのか……とても幸せです。ですが、幸せ、という言葉では足りない気がして」



ヨンが私の耳元で、吐息を落とすように笑う。

そのくすぐったさがこの上なく心地良くて、私は身を捩りながら答えた。



「私もよ。凄く幸せだわ。ふふ…まだ生まれてないのにね。生まれたらどうなっちゃうのかしらね、私達(ウリ)」

「もっと幸せになるのでしょうね」

「そうね。ふふふ……あ、蹴ったわ。ね、」

「蹴りましたね。けしからぬ奴です、イムジャの腹を蹴るとは。ですが……元気で何より」

「ヨンはやっぱり男がいい?チェ家の跡継ぎが欲しいわよね?」

「元気ならどちらでも良いです」

「そう? ……多分、男の子な気がする。母親の勘だけど」

「そうですか。貴女に似た娘も欲しいですが」

「私はヨンに似た男の子が欲しいわ」

「俺と貴女の子なら、何人でも」

「うふふ…そうね。追々ね」

「追々ですか……」

「そう。無理のない範囲でね」

「ふ、分かりました」



私は、お腹の上にあるヨンの手に、自身の両手を重ねた。


まずは、この子を無事に産まなくちゃ。


この時代での出産。しかも初産……現代に生きていた私からしたら、どれだけ無謀なチャレンジか。


でも、1人じゃないわ。

ヨンも協力してくれるし、チームも、チェ家の皆んなも、手裏房の人達もいるもの。それに、詳しい事は分からないけど、歴史的にも……ちゃんと生まれるはずだから。


だから私は、何事もなく無事に産めるように……模範的な妊婦として頑張って、貴重なマタニティライフを過ごそう。



大丈夫。きっと大丈夫よ———