大護軍様が己れにおっしゃった事を聞かせると、妻は曇った顔で目線を下げ、しばらく黙ってから…ちら、と掬うように俺を見た。
「——あなたもそうでしたの?」
「ん?」
「あなたも……私がテヨンを産んだ時、大護軍様と同じようにお考えでしたの?万が一の時は、我が子よりも妻を選ぶおつもりだった?」
「それは……」
妻は、じぃ…と探るように俺を見つめた。
先に破水した上に、赤子は頭ではなく足からの…難しい出産だった妻。
だから、俺には大護軍様のお気持ちが痛いほど——
俺は、ぐ、と妻の目を見つめ返した。
「俺は医員だ。あの頃…チャン侍医様のお側で、多くの事を教えていただいた。その俺が側に付いていて、助けられない命などない、そう思っていた。お前も吾子も、二人とも助けると」
「あなた……」
握りしめた拳を、妻のぬくい手がそっと包む。
「大丈夫。あなたなら医仙様とお子様、お二人とも助けられます。私もテヨンも、元気に過ごしておりますでしょ?」
「うん……」
「しくじる事などございません。信じております」
「……そうか?」
「ええ」
妻にそう言われると、何だかそんな気に——
「ここまで言えばご満足ですか? さ、早く召し上がってくださいな。熱々の一番美味しい時に食べていただきたかったのに……はぁぁ〜」
「お、お前……何だ今のは⁇夫を励ましたのではないのか?偽りか??」
「本心ですよ。あなたなら大丈夫ですわ」
「いや、信じられん……」
「まぁひどい。ではどう言えばよろしいの?大護軍様の事でなければ、とうに話を切っておりました」
「そうだろうな。だが、話の根はこの先にあるのだ。茶化さずに最後まで聞けっ」
俺は荒ぶる気持ちを鎮め、ぎゅ、と目を瞑り……ひとつ深く息をしてから、妻へ向き直った。
「その、な。大護軍様のお気持ちを伺って、改めて俺は気づいたのだ。俺がしくじったら、全て終わりなのだ、と」
「全てとは?」
「大護軍様と医仙様のご縁は深い。お前も知ってるだろう?」
「もちろんです。お2人の馴れ初めや、口づけで大護軍様に命を吹き込まれたお話など……素敵ですわ。お2人のその後のいきさつも、ずっとあなたから聞いておりましたし」
妻は恍惚と瞳を瞬いて言う。
これは自慢に値すると思うのだが、実はたいへん近い所で、俺は長くお2人を見てきた。
4年前から今まで……大護軍様がおひとりの間も。
お2人の絆は、一遍の美しい物語のようで……妻などはもう、いつも夢見心地で聞いていた。
(というか、話せる事は全て話せと、妻の催促がきつかったのだ…)
「その…しくじる、とは、医仙様をお助け出来ない状況、という事ですよね?」
「……口にするのも恐ろしいが、そうだ」
「いけません。そんな事になったら、大護軍様がどんなに悲しまれるか」
「そうなのだ……そう」
「駄目ですよ、あなた。大護軍様が悲しむ姿など、見たくありません!」
「分かっている。だがな、もしもだ、もし、」
「あ〜あ〜あ〜、聞きたくなーい!」
「聞けー!もし医仙様をお助け出来なければ、大護軍様はきっと、生きる事を辞めてしまわれる!」
「え、辞める?」
「そうだ。大護軍様の生きる理由は医仙様だ。医仙様を失くしたら、大護軍様は生きる意味も気力も失って、そうなれば高麗は不敗の守護神を失う。やがて諸外国に飲み込まれ、国は滅ぶ——……」
血の気の引いた顔で、俺と妻は見つめ合って絶句した。
そもそも、だ。
医仙様のご高名は、元国にまで聞こえていた。
大護軍様が王様の懐刀で、我が高麗の軍部の要でいらっしゃる事も、国内外まで通じている事だった。
その大護軍様が、誰よりも大切に想われている……下賎な言い方をすれば、恋女房である医仙様。圧倒的な強さを誇る大護軍様の、唯一の弱点である医仙様——
それを知らぬ者はいない。
という事は……
医仙様を失ったら、大護軍様を失う。ひいては、高麗も……民達も……我々も。
全てを失うではないか——
「……故に恐ろしくてならんのだ。何としても、障りなくご出産、その後もお健やかでいていただかねば……」
あなた。と、妻が俺に詰め寄る。
「絶対!ぜーーーったい!!しぐじってはなりませんよ。もし、しくじったら……離縁ですわよ!!」
「馬鹿者!離縁どころか、そうなったら俺の命など無いっ」
「それもそうですわね……」
夫婦揃って吐いた溜め息が、夜のしじまを揺らした。
しばらく黙っていた妻が……「でもきっと、あなたなら大丈夫です」と呟く。
「本当にそう思うか?」
「思います」
「……なぁ。お前は俺が先に死んだら、どう……
——ああ、いや、いい。言うな」
口を開きかけた妻を手で制し、俺は、つ、と目を逸らした。
気丈夫な妻のこと、俺が居なくても逞しく生きていくに違いない……
俺の制止など聞かぬ妻は、静かに言葉を繋いだ。
「……テヨンがおりますから、私は死ぬ訳にはいきません。あなたがいなくても、生きて参ります」
「そうだな。愚問だった。ぜひそうしてくれ」
「テヨンの為にも、良い方がいれば、再び縁付くやもしれません」
「うん……」
「その時は、もう少し禄をいただけるような、お休みも取りやすいような職の方だと、良いのですけれど」
「う……」
耳が痛い。聞くのが辛い。
言葉少なになっていく俺へ、妻が被せるように言う。
「——ですけれど。今の暮らし、私は好きですの。あなたは良い夫ですし。だから、死なないでくださいませ」
「お前……」
瞠目して見つめる俺に、妻は、ふふふ、と口端を上げた。
後に、俺の何処が夫として良いのか、と、問うてみたら——
「私の作ったものを、何でも美味しい美味しい、と食べてくださる所です」
妻はにこやかにそう答えた。