「なぁ、お前……俺はもう、駄目かもしれん」


目の前の夕餉に手を付けず、俺はつい妻に愚痴を——いや、愚痴などではない、本当の事だ。


しかし妻は……


いただきます、とスッカラを手に取り、熱々のチゲをふぅふぅ冷ましながら口へ運んでいる。


「ん〜♡今日も美味しく出来たわ。あなたも冷めないうちに召し上がって」


俺の愚痴など聞こえていないのか(いや、だから愚痴ではないのだ)、妻は美味しそうに飯を食べ続けている……



「おい、聞いてるのか?夫がもう駄目かもしれない、と言ってるんだぞ」

「聞いてますよ。何が駄目なんです?」

「医員の仕事だ。大変なお役目を仰せつかってしまった。しくじりでもしたら……全て終わりだ」

「王室の侍医ですもの。大変なのは当然でしょう。何かしくじりそうなのですか?」

「う……いや、しくじらないように最善を尽くすが、」

「なら良いではありませんか。最善をお尽くしくださいませ」

「そうなのだ。そうなのだが、」

「他に何か?」

「……もしも、の話だ。もし、しくじったら……俺やお前の命どころか、この高麗も危うくなるかもしれない」

「まぁ大変。でしたら、絶対しくじらぬようにお願いします」

「うん……そうだな」

「そうですよ。さ、汁が冷めてしまいます」



食べ始める気配の無い俺を、ちら、目で促すと、妻は再び「ん〜、美味しいー」と言って、実に美味そうにチゲを食べ進めていく。



「……なぁ、お前」

「何です?」

「いつも思うのだが……もうちょっと、気にかけても良くないか?俺は夫だぞ?」

「いつも思うのですけれど、私が聞いてどうにも出来ぬ事を、長々と言わないでくださいな。あなたがする事でしょう?私が駄目だと言ったら、やめるのですか?」

「それは……」

「私に出来るのは、豊かでない家計をやり繰りして、せいぜい美味しいものを作って、あなたに食べさせる事くらいです。さ、食べて寝て、しっかり働いてくださいな、あなた」

「うん……」



これ以上言うのは諦めて、俺は大人しくチゲを口に運んだ。


……美味い。


妻の飯は美味い。変わった組み合わせを考えたり、調理の工夫が得意な妻なので、ちょっと不思議な味がする時もあるが、それもクセになるというか…俺の口に合う。

(しかし、以前友人をもてなした折、彼奴は訝しい顔をして食べていたな……はて?美味いのに)



が、しかし。妻の飯が美味かろうが、今日の俺は……もの凄い疲労感と絶望感に襲われている。


大護軍様に、恐ろしい事を言われたからだ。


奥方様である医仙様と、そのお腹の御子。

万が一の時は、御子ではなく、医仙様をお助けせよ、と——



また一気に食欲が失せた俺は、チゲをごくん、と飲み下すと、そのまま手が止まった。



大護軍様との遣り取りが、まざまざと思い出される——


「……あの、おそらく医仙様は違うお考えかと」


あの時、額からは嫌な汗が流れ、背中も同様で、濡れて身体が冷えてしまった。


そのような恐ろしい状況……思うだけで恐ろしいが、万が一にそうなった時、医仙様がおっしゃる事など、想像するに容易い。

私より子どもを優先して、と、おっしゃるに違いない。


しかし、大護軍様は難しいお顔のままで——


「だからだ。こうして其方にだけ話している。あの方の耳には入れない。故に、其方も言うな」

「大護軍様、しかし、」

「あの方に何と言われても、必ずそうしてくれ。イムジャの…妻の代わりは居ない。

頼む———」



畏れ多い事に、俺に向かって頭を下げられた大護軍様の……その苦渋に満ちたご様子に、俺は「全力を尽くします」としか言えなかった……




「冷めてしまいましたね。温めなおします」


俺の椀へ伸びてきた妻の手を直前で掴み、俺は妻を見上げた。


「なぁ、お前に聞かせて、どうにかなるものではないが、聞いてくれるか??」

「ん——……良いお話なら聞きますけど」

「良くはない。だが、大護軍様の話だ」

「ま、大護軍様の?」

「そうだ。大護軍様は、お前の憧れの方だろう?」

「ええ、ええ。あの御方は本当にお顔が良くて……♡

で?大護軍様が、どうかなさったの?」


妻は俺のチゲを温める事を横に置き、正面に座り直して聞く姿勢になる。


ええぃ、愚痴だと言われても構わん。

俺ひとりの胸に留めておく事など、到底無理なのだから……



俺の口が堰を切った。


「ここだけの話だぞ? あのな、今日、大護軍様が俺を訪ねていらしてな。で、人払いをされて、俺と2人きりで内密の話をされたのだ」

「ま、大護軍様と2人きりで内密の話を?」

「ん、それでな……———」



俺はあふれ出るまま、妻へ溢しまくった。