康安殿(カンアンデン)へ行ってみると、何やら重苦しい様子が見てとれた。



扉の前に立つ内官が、俺を見るなり、下げていた眉根を一層下げ、あぁ、と息を吐きながら頭を垂れた。



どうやら先客がいるらしいが……


何事だ?と俺が問うより早く、内官が「大護軍、チェ・ヨンが参りました」と取り次ぐと、すぐに「通せ」と主の声がした。



開けられた扉の向こうには、王様とアン・ドチ内官。脇にはチュンソクが控えてい……

そしてもう1人。竜顔を前にして、俺に背を向けて立っている大柄な男——ゆっくりと振り向いて俺を睨めつける、キム・ヨン上護軍が居た。


「噂をすれば、ですな。私はこれにて失礼いたします」


王様へ恭しく腰を折ると、キム・ヨンは踵を返し、頭を下げる俺に陰湿な目を向けながら康安殿を出て行った。


それを見送って、俺はそのまま目線を主へ移す。


こめかみを抑えて、王様が大きく息を吐いている。アン内官は言葉なく視線を揺らし、チュンソクは俺と目が合うと、困り顔を小さく左右に振った。



「——王様」


俺の声にゆっくりと竜顔が上がり……「やれやれ、厄介な事だ」と、王様が溢された。


「キム上護軍が何か?」

「うむ……何かというのか……やはりあれは、もう、どうしようもないのやも知れぬ」


王様は更に溜め息を吐かれると、よう参った、チェ・ヨン。とおっしゃった。



聞けば、元と紅巾への備えの為、禁軍の将を北方へ派遣する計画が持ち上がったものの、キム・ヨンには禁軍を動かす気が無いらしく。

呼び出してみたが、我々禁軍は、都と王宮を守らねばなりませんので…などと、のらりくらりとかわすばかりだと——



「それが彼奴、口を開けば『チェ大護軍が行けばよろしいでしょう。あの者程、北方に長けた者も居りますまい』、と言うてな」


王様が呆れたように、また息を吐く。


「はぁ、左様でございますか……」


確かに。以前の俺は、イムジャを迎える為に、進んで北方へ行きっぱなしだったからな。


俺が目障りで仕方ないのだろうが……


面倒な男だ。


「よほど其方の事が気に入らぬらしい」

「はぁ、身に覚えはございます」

「医仙が戻り夫婦となったばかり……余としては、其方を今しばらく都へ留めておきたい。上護軍には再度言うてきかせる」

「恐れ入ります——」


言って俺は頭を垂れた。


今、都を離れるのはもちろん避けたい……だが。



下唇を噛んで思考にはまる。


己れが今日、何の目的で王様をお訪ねしたのか。


今更ながら気づいた俺は、その言葉を、ぐ、と飲み込んだ。


イムジャの為にも高麗(くに)を守る——

王様をお支えし、己が身を尽くす、と。


そう誓ったものを——


“あの”医仙だと隠す事なく、堂々とイムジャを妻と出来た事。

徳興君やキ皇后を、逆撫でするような事態になりかねなかったそれを、許し認め守ろうとしてくださった王様へ、俺が願い出ようとしていたことは……


身動きが取り易いようになどと…職を放棄するような事を、いくら妻の為とはいえ、勝手が過ぎるのではないか。


十分勝手をしてきたのだ。

今までも王様に、どれだけの御心を砕いていただいたか……


キム・ヨンに妬まれるだけの事はある。

むしろ、妬まれて当然だろう。



「……彼奴も昔は、あんなではなかったのだ。もっと覇気のある男であったのに……共に元で苦労した故、つい甘うなってしまう。今まで愚かな彼奴の事を、何度も赦してきたが……そろそろいかぬな」


はぁ、と息を吐き、王様が口端に笑みを乗せて、俺を正面から見据える。



「——それで?いかがしたのだ。何用かあって来たのだろう?」

「あ…いえ、その——」


口籠もりながら、つ、と、チュンソクと目が合う。


「…護衛の交代に参りました。チュンソクは、今から新人迂達赤の選抜がございますので」

「——え?」


突然水を向けられて、チュンソクが目を瞬いている。


「早く行け、チュンソク」

「あ…しかし、選抜は大護軍が、」

「いいから行け!」

「イ、イェ!」



チュンソクが戸惑いつつ康安殿を辞すと、王様が面白そうに、


「大護軍自ら護衛とは心強い」

「とんでもございません、王様」

「どうだ、久しぶりに散策にでも行かぬか?大護軍」

「お供いたします」


王様が笑顔で立ち上がるのへ、俺は一礼して応えた。



アン内官が、「庭園の緑が美しゅうございます」と、嬉しそうに後へ続いた。