ヨンと医仙…奥方が、一瞬、意味深な目線を絡めた事には気付いていた。


しかし、それがそのまま俺に向けられ、まさか、あのような事を耳打ちされようとは……しかも、ヨンから。


“赤子が腹に落ち着くまでは、奥方に無理を強いるな。我慢しろ”


そして、返す言葉も無く瞬きする俺の肩を、あやすように叩くと、ヒジンに会釈をして、ヨンは医仙の後を追って出て行った。


ヨンめ……覚えてろよ。今は他人事だと思ってるだろうが、お前だって直(じき)に——



「……あなた」


俺はヒジンに呼ばれて我に返り、慌てて振り向く。

目が合うと、ふわりと頬を染めた妻が、俯いて黙りこんだ。

——いや、俺のほうが赤いか……?いやいや……


「ヒジナ。客間の事は構わない故、このまま休んでいろ」


俺は妻を寝台へ横たえるように寝かせ、物言いたげに見返してくる小さな顔を眺めながら、その傍らに腰を下ろす。

そして、俺達はしばらく無言で見つめ合った。



ヒジンと俺は、いわゆる“許嫁”という間柄だった。

初めてヒジンに会ったのは、鷹揚軍・中郎将(おうようぐん・チュンナンジャン)に上がった頃だから……俺が23、ヒジンが13の頃か。


13歳の許嫁だと?

まだ子どもではないか。はぁ——……


ヒジンが挨拶に現れた時の俺は、それはそれは呆れ果てた顔をしていたと思う。


ところが、俺の許嫁殿…幼いばかりの少女は、その見た目からは程遠い落ち着きで、優雅に頭を下げ——


『初めまして。ヒジンと申します。近く貴方様の妻になります。お見知り置きくださいませ』


ゆっくりと上がってきた白い顔に薄桃色の頬。野いちごのように赤く小さな唇。

恥ずかしそうに、しかし、臆する事なく俺の前に立ち、大きな瞳を揺らしながら微笑む少女——


瞬間、俺は全てを持っていかれた。


己れが一番驚いていた。

10も年若の、男女の睦言など何も知らない少女に……俺はそんな…嗜好であったのか?まさか——


当時の俺は血気盛んな年頃。軍の上官や同胞との付き合いで、女を知らぬではなかった。

皆で繰り出すのは、そこそこの店構えの妓楼。相手は鮮やかな化粧と華やかな衣で、美しく創り込まれた妓生達。

しかし、馴染みをつくる程も通わなかったのは、白粉や香の匂いが、きつかったせいか、それとも、いずれ娶るまだ見ぬ妻とは真逆ゆえの、違和感からだったのか……


ともかくも、ヒジンと対面してからは、妓楼には一度も足を運んでいない。

……自慢にもならないか。



「あなた。先程、チェ・ヨン様は何と……もしや、あの」

「ん?」

「あの……控えねばならぬ、とおっしゃったのでしょうか……?」


ヒジンが頬を赤らめながら、消え入るように言う。


「聞いていたのか?」

「ウンス様がそう……あなたにも伝えねば、と」

「そ、そうか。それで、ちゃんと診てもらったか?あの方はヨンの嫁御になられたとはいえ、天の医員で高麗の医仙だ。」

「はい。身に余りますわ。診たてていただき、隠さずご相談したら……当分安静にするように、と」

「そうしろ。ミンジュとウクが腹に居た時もそうだったが、此度は更に辛そうだ。何かあっては……」


言いながら、ヒジンの髪を額へ撫でつけていると、


「……ごめんなさい。あなた——」


ヒジンが、ひた、と俺を見つめて、続く言葉を飲み込んだ。


「お前が何を謝る?」

「あの…私が駄目だからと……他の女人(ひと)の所へ行ったりしないでくださいね」


思い詰めた顔でそう言い終えると、ヒジンは布団に潜り込んで隠れてしまった。


……突然何を言い出すのだ?


俺は妻に触れていた手を宙に浮かせたまま、言葉なく固まった。


今まで悋気をする事などなかった妻が(いや、実際他所になど行った事はない)、

夫を立て、子らを育て、いつも穏やかで笑みを絶やさない…良妻賢母とはそなたの妻の事だ、と、身内にも褒められる妻が……

今は己れの目の前で、いじけた幼子のように布団の中で丸くなっている。


「どうしたのだ?何を言い出すかと思えば」

「……」

「お前が居るのに、俺が他所へなど行くはずないだろう?信じられないのか?」


ヒジナ、と、他にどうしようもなく、俺は布団の丸の上に、我が子へするように手を当てた。


やがて、布団の中からくぐもった声が聞こえ……


「……信じていますわ。困らせてごめんなさい。ただ、医仙様がおっしゃったの。懐妊すると気持ちが沈んだり、不安にもなりやすいのですって。それは当たり前の事だから、その時は、素直に気持ちをぶつけて甘えなさい。自分が心を許せる……大好きな人に甘えなさい、と」

「……ヒジナ」

「だから今は仕方ないと思って……許してください」


俺がそっと布団をめくると、布団で温まっただけではなく頬を染めた妻が、大きな瞳を揺らしながら俺を見ていた。


そして、俺に向かってにっこり笑うと、か細く白い手を伸ばしてくる。

その手を己が両手で包んでやると、ふふ…と笑みを溢し、


「では、お言葉に甘えて少し休みます。お客様と子ども達をお願いします。それからその前に……もう少しだけ、こうしていてくださいますか?」

「ああ——」


俺が答えると、ヒジンは安心したように目を閉じて、きゅっ、と俺の手を握った。


それに己れも返しながら……俺は想いを重ねる。


どうせ子どもだろう、と鼻で笑っていた、あの出会いの日からずっと。


俺は、お前の事が堪らなく愛しい、と。