ジテの日誌の何冊目か——


俺は目を奪われる記述に出会った。



都から北の領地に戻ったジテが、懇意にしていた寺を訪れた折。

そこでジテは、驚きの光景を目にする。


荷車に轢かれ負傷した少年を、ある女人が治療する、というくだり。



……その女人は世にも稀有な道具を使い、少年の傷を縫い止めていた。

痛みに喘ぐ少年を、大人数人がかりで押さえ込むのへ、叱咤激励しながら治療を終える。

その医術は素晴らしく、都にもこれ程の医員はいないと思われる。

そしてその姿形の美しさ。

このように美しい女人を、我は見た事がなかった……



俺は、ギリッと奥歯を噛み締めた。


黒い感情で思考が絡め取られる。

目の奥がじんじんと熱を持ち、瞬きすら忘れる。



まだだ。まだ。

しっかりしろ、チェ・ヨン。


己れを鼓舞し、その先へ目線を移す。




……女人の医術はこの世のものなのか。

使う道具は天のものに違いない、そう思える程に神々しく輝きを放つ。

薬草の知識も深く、多くの民を患いから救い、心までも癒す。

実に素晴らしい女人である。

だがやはり思うのは、女人はこの世の人ではないのではないか、という事だ。

天女も斯くや、と思う程に美しい顔に白い肌。山葡萄を染め出したような不思議な髪色は、陽の光で更に煌めき……



ああ……クソッ

半端なく苛立つ。



読み進めるにつけ、俺はそれを全力で破り捨てたい衝動に駆られた。



既に俺の中で、確信が形作られていた。



この女人はイムジャだ。



認めたくはないが、間違いなくイムジャだ。



信じがたい事だが、あの方は……俺のあの人は、100年前の高麗に居たのだ。



100年前でもその医術で民を救い、あの温かかな人柄で、多くの人から必要とされていたに違いない。



だが、この男は


このジテという男はイムジャの事を———








まさか



まさか






バン!


行き着いた忌々しい考えに、俺は荒い息遣いで卓を打った。


ソン・ユが振り向くも、俺の様子に得心しているのか、何度も頷いては溜め息と共に言う。



——で、ありましょう……


私でさえ初めて目にした時は、胸が騒つき天を仰ぎたい思いがしました。

護軍なら尚更でしょう」


……断事官はこれを全て読んだのか?」

「無論です。私の高祖父の事ですから」


知っておくべきだと思ったのです。


ソン・ユはそこまで言って、再び口をつぐんだ。



俺は深い呼吸を繰り返し、荒ぶる思考を押さえ込む。


知っておくべき事。

俺にとってもそうなのだ。しかし


クソッ……胸糞悪い。



目を閉じ丹田へ気を集め、気持ちを無理矢理落ち着かせる。

そう努めてみる。


大きく息を吐き出し、俺は再び日誌を繰った。



……彼の人(かのひと)の頼みで、江都(カンド)へ同行させる事になった。

長い道中、共に過ごす時間が待ち遠しくてならない。

彼の人に、都入りの為の衣服を用意した。

あの美しい人が纏うに相応しい衣服を。

きっと似合うだろう。

どれほど美しいだろうか……



フン。あの方は、あれこれ飾り立てた服はお好きではないのだ。クソッ……


そう胸の内でぼやいて、はた、と思い至る。



江都?


そうだ。高宗の御世、30年ほど都は江華島(カンファド)にあった……


慶昌君様とあの方と。

ほんの束の間、共に過ごした江華島。


あの時、俺は浅ましくも夢を見たのだ。

慎ましくも心穏やかに暮らす、幸せな夢を。


その江華島に、あの方がいらっしゃったのか……



行ってらっしゃい


俺に向かって笑顔で両手を振る2人の姿が思い出されて……目頭が熱くなる。



……江都まで、共に馬車でと思っていたのに、彼の人は馬に乗ると言ってきかなかった。

見事に乗りこなすその姿には、大いに驚かされた。

残念ではあったが、無理を強いてはならぬと己れを戒め……



は、


小さく吹き出した俺を、ソン・ユが不思議そうに眺めた。



そうだ。あの方は馬に乗れる。

俺が教えたのだ。


乗馬を教えた時の、めちゃくちゃな遣り取りを思い出し、思わず頬が緩む。


颯爽と馬を駆る姿が目に浮かび、俺は片手で顔を覆って、しばらく肩を揺らした。




「護軍?」

……あの方らしい。何処に居ても、あの方はあの方だな」

「やはり、日誌(そこ)にあるのは医仙の事ですか?」

「そのようだ」

「左様ですか……


ソン・ユが、僅かに目線を揺らした。



……どうぞ続きを。まだ先がございます」



促され、俺は日誌に目を落とした。