安州の軍営に着いてから1週間が過ぎた。


未だ、元にこれといった動きは無い。


引き続き国境の守備を固めつつ、俺は指揮官として、各領(分割した軍隊の呼び名)の将達と軍議を重ね、兵の様子を見て回っていた。



「いっそ、こっちから仕掛けてやるか?今なら元に勝てるかもな」


冗談まじりでヒジェが言うのへ、ドンジュがすぐさま、


「無駄な血を流させないでください!無駄ですよ、ムダ‼︎


手裏房の情報通り、元は内乱紅い頭巾をした連中だそうですよ、そいつらの勢いに押されて、酷い有様だとか。

我々と戦どころか、和睦を提案してくるやも知れません。


賢そうな目をくるくると動かし、鼻息荒く言う。



確かに、その可能性もある



——今なら行けるか。


俺はひととき思案に沈んだ後、ヒジェに向かって言い放った。


「少し留守にする。後は頼んだ。

——トクマナ」


「イェ、テジャン」

「着いてこい」


言って俺はそのまま兵舎を出て、チュホンに跨る。


テマンが、俺は?俺は?という顔をするのへ、


「何かあれば、繋ぎを頼む」


と、言い含め、駆け出そうとしたその時、巨体を揺らしてヒジェが追いかけて来た。



「おい、チェ・ヨン!何処行くんだよ!」


「北だ。夜には戻る」


え、おいっ


呆気に取られるヒジェを残し、俺は天門へと馬を駆った。



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天門の様子は何も変わっていなかった。


見張り役の手裏房の若い奴に駄賃を渡し、その間しばらく己れが見張りに立つ。



「あの、テジャン……


微動だにせず天門を睨めつける俺に、トクマンが遠慮がちに声をかけた。


「俺が見張ってます。テジャンは少し休んでください」

「心配要らん。大丈夫だ」

「ですが……


あの日、ここで倒れていた俺を思い出すのか、トクマンは俯き気味に言葉を濁す。


俺は、ふ、と小さく笑みを溢すと、その頭を軽く叩いた。


……わかった。しばらく頼む」


俺はそう言い置いて、ひとり丘を目指した。






気持ち良く晴れた空は高く。


辺りは冷んやりと澄んだ気に満ち、木々はすっかり葉を落として裸木のさまだ。


あの日咲き乱れていた菊の花は、今は無かった。


俺はイムジャと2人で見上げた、あの大木の根元に腰を下ろして目を閉じた。




遠くで鳥の鳴き声がする。


冬枯れの草木を揺らす風の音。


巻き上げられる土埃さえ、何か知っているのではないか、と思う。


あの日、己れの目では見られなかった光景を。

イムジャの、あの方の姿を。




『天門が開いたら、其方いかがする?』


そう王様に問われた事を思い出す。



もし開いたら。

今、目の前で天門が開いたら……


俺は天門を潜り、イムジャを迎えに行くのか?



———答えは、否、だ。



俺はまだ、何も成し遂げていない。


あの方が俺の元へ戻られた時に、安寧に過ごしていただけるように、まだその準備は何も。



会いたい。


ひと目だけでも、お元気な姿を

あの輝く笑顔を

鈴の音のような声を聞きたい。


触れて

この腕に囲いたい。





俺はゆっくりと目を開けた。





イムジャ。



俺は決めました。


俺が北を取り戻す間。

元との諍いが収まるまでの間。

高麗が高麗として成るまでの間。


一日も早く、そう成るよう努めます。


故に


どうかそれまで、天界で健やかにお過ごしください。


貴女を天界に預けます。


貴女の故郷だというのに……あんまりな言い草かもしれませんね。


しかし、俺にはそうとしか言いようが無く。


俺は、貴女を我がものと思っておりますので。


必ず、俺の元へお戻りくださると、信じておりますので。



いつか、俺は天界で有名人なのだ、とおっしゃいましたね。父の遺言が歌になるほどの。


では俺は、天界でそのように在る為に

貴女が俺を忘れないでいられるように


貴女がおっしゃっていたように、致すとしましょう。


高麗を守り、戦もして、たくさん武功を立てて

歴史に名を残す将軍に——


……何ともおこがましい話だが。


イムジャがそう言うのだから、そうだと信じるしか。




俺は、苦笑いで空を見上げた。


この空は、貴女の所まで続いているのだろうか。


未来、という 貴女の住む世界まで。



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俺とトクマンは天門を後にし、安州軍営への帰路を急いでいた。


……何だ?さっきから」

「いいえ、何でもないです……


後ろを走るトクマンが、何やら薄笑いを浮かべているのが、背中越しでもわかった。


「トクマナ、」

「いいえっ、あのっ、その……テジャンが。

テジャンのお顔が、少し晴れやかに見えたので。医仙様との思い出の場所に、いらしたからですよね!」


己れの事のように、嬉しそうに頬を染める部下に、俺はしばし固まる。


「そうだ、テジャン!あの大樹の周りに、たくさん小菊を植えましょう。お戻りになられた時に、きっと喜ばれます!」


イムジャの笑顔を想像したのか、照れた様子のトクマンの頭を、俺は思い切り叩いた。




と、道の後方から、早馬が駆けてくる気配がした。


まだそれに気づかないトクマンが、振り返り一点を見つめる俺を、不思議そうに眺める。


点すら無かったそこに、その姿を認めるまで、そう時間はかからなかった。



あれは確か手裏房の———


俺に気づいた男は、半ば転げ落ちる勢いで馬から降りると、息を切らせたまま口を開いた。


「チェヨンの、旦那……来ます、奴、が」


「誰が来る?」



男は、トクマンが手渡した竹筒から水を飲み下すと、切れ切れの声で言った。




「元の、断事官が、 、」