絵巻上巻の第14紙側:清涼殿にて清和天皇(左)に奏上する藤原良房(中央)と

②広廂の外に控える藤原基経

 

第七章 『日本三代実録』における応天門の変

一 鈴木琢郎氏の論考についての検討

 『日本三代実録』を専らの拠り所として、大宅鷹取による密告(告発)後の伴善男らに対する断罪過程について精緻な分析を行った鈴木氏は、蛇足ながらの推測と断ってはいるものの、『日本三代実録』の記述から伴善男の子の伴中庸が門放火の実行犯の中心人物と判断されるとし、中庸を主犯と見た上で、その動機について述べている。該当箇所を引用すると、次のとおりである。

 

犯人が息子の中庸であれば、父の大臣昇進の可能性を高めるという理由は、犯行動機たり得るものと考える。父善男が大納言にまで昇進できた理由は抜群に優秀な能吏であったからであり、伴氏の家格等ではない。すなわち、中庸やその子息の昇進は決して約束されたものではないからである。

 事件当時、中庸には二人の子息がいた。元孫(八歳)と叔孫(五歳)である。中庸は自分の子息を父善男の蔭位により、少しでも優位な立場から出仕できるようにするために、父の昇進を目的として応天門放火・源信への誣告に及んだ、とは考えられないだろうか。筆者は大臣位への就任願望は、能吏を輩出することでしか高級官僚を輩出できない氏族にとって、現実的な問題だったと考える。

 事件発生時、中庸は警察機能を有する右衛門府の次官、右衛門佐であった。この地位は源信を犯人に仕立て上げる工作を行う上でも有効に働いたものと推察される。(後掲鈴木p349・350)

 

二 「誣告に及んだ」とは?

 中庸が「父の昇進を目的とし応天門放火・源信への誣告に及んだ」とするなら、放火の後、あまり時を置かずに中庸は源信を告発しているはずであり、その告発記事が『日本三代実録』に書かれていなければならないが、それが欠落している。大宅鷹取の告発だけが明確に記録にされ、中庸による左大臣告発の記事がないのに「源信への誣告に及んだ」となぜいえるのか。『宇治拾遺物語』などの他の史料も参考にしたということであろうか。

 次に、その告発の結果はどうなったのか。『日本三代実録』の源信の薨伝記事又は他の史料も参考にすると、朝廷では左大臣を捕縛しようとする動きがあったようであるが、左大臣は有罪となるどころか、無罪となったのではないか。そうなれば、逆に告発した側が誣告罪で処罰されるのが律のルールである。大宅鷹取の告発の前に、中庸は誣告罪で処罰されているはずである。これも『日本三代実録』に書かれていなければならないが、欠落している。それはなぜなのか。

 これらのことについて、鈴木氏はまず答える必要があるのではなかろうか。

 また、そもそも「誣告に及んだ」との表現も曖昧なのであり、具体的にどういうことを意味するのか。当時の法律や裁判制度のことは考慮されているのか。中庸は法的手続きを踏んでいるはずであり、もし正確に記すなら「源信を大逆罪で告発した」と書くべきであり、そのように書けば、その後の事の展開(訴訟の流れ)が少しは明瞭になってくるのである。そして源信は大逆罪で処罰されるどころか無罪となったのではないか。源信が無罪となれば、中庸の告発は、単に不発に終わりお咎めもなしということでは済まないので、一転して誣告罪に問われるのである。これが当時の律のルールであることは既に述べたとおりである。このことは、大宅鷹取の告発の場合にも当てはまるのであり、『日本三代実録』の記事にあるとおり、大宅鷹取が告発後直ちに左検非違使に身柄を引き渡され拘禁されたのは、鷹取も誣告罪の被疑者として取り扱われるためである。仮に伴善男らが無罪となれば大宅鷹取が誣告罪で処罰されることになるのである。では誣告罪の刑罰はどうなっているのか。第一章で述べたとおり、律の規定では反坐という刑罰ルールが誣告罪に適用されること、そして大逆を誣告した者は死刑(斬首)となることなどが、調べていくことにより分かってくるであろう。

 

三 狂気の沙汰では?

 ところで大内裏の門を焼くという行為は大逆罪(死刑)にあたる犯罪行為である。それをやってのけるだけの大胆さや度胸を伴中庸が持ち合わせていたであろうか。それも考えられないことではないが(なんでも中庸は大宅鷹取の女子殺しの主犯と断罪されている)、しかし常識的に考えれば、そもそも大内裏の門に放火するというような犯罪行為は思い付きもしなかったのではないかと考える。

 というのは、なによりも応天門は、大伴門とも呼ばれ、先祖代々守ってきた一族の象徴であり誇りである。その門に火を付けることは、自ら一族の顔に泥を塗るに等しい行為である。その上でさらに、鈴木氏によれば、あろうことか太政官のトップである左大臣に罪をなすりつける工作をして告発するという、これまた大胆ではあるが成功する可能性の期待できない行為に出なければならないわけである。ちょっとハードルの高すぎる大仕事といわなければならないだろう。自ら一族の名誉を著しく損なう応天門放火と左大臣告発という二重の危険(放火が発覚すれば大逆罪で死刑、告発が誣告罪となればこれまた死刑となる)を冒してまで、何が何でも大臣位に伴善男を押し上げなければならないような切迫した事情は息子中庸の側にはなかろう。それどころか太政官のナンバースリー(良房を除く)たる伴善男の正三位・大納言という官位は、中庸が子ら一族の将来を心配しなければならないような、物足りない地位では決してないだろう。中庸にとっては、父親伴善男の存在は鼻高々であったはずである。伴善男が長生きすれば、あるいは大臣位が回ってくるかもしれないのである。

 鈴木氏が指摘するように、蔭位を得られるかどうかは、藤原氏以外の氏族にとっては現実的な問題であったかもしれないが、あくまでも高級官僚になれるかどうかに影響する一要素にすぎず、だからこそ、祖父善男を見習い、聖徳太子の憲法17条をよく読んで官人としての心得をしっかり身につけ実力を備えた能吏となれるよう、一族として幼少時から子を教育し、さらに大学寮の利用も考えようとするのが親心というものではなかろうか。そのような親の責務についての自覚は中庸にはなかったのであろうか。子の将来を心配するあまり、切羽詰まって、親が死刑覚悟で大犯罪に手を出すなど、一族への溺愛をはるかに通り越した所行であり、決してありえることではない。冷静で緻密な計算に基づいた行動とはほど遠いもので、自己破滅的な暴挙以外のなにものでもない。狂気の沙汰と言われても仕方なかろう。

 中庸が門を放火し左大臣を犯人とする告発に及んだとする鈴木氏の見立てはあまりにも現実離れしており、無理があると言わざるをえない。伴善男自らが大臣位への就任を望み、応天門に火をかけ、左大臣に罪をかぶせようとしたとする見解と大差はない。

 

四 「正史」にとらわれた偏見、先入観、固定観念

 どうしてこのような無理筋の見解が提出されるのかを考えてみると、つまるところ『日本三代実録』という摂関家が作成に深く関与している「正史」の記述に拘泥するあまり、伴氏の犯行動機は不明、伴氏による告発があったかどうかも不明であるが、伴氏が放火したという点については、「正史」の中に断罪の記事があることから動かしがたい事実であろうとの強い先入観、偏見あるいは固定観念というものが読み手の側にあるためであろう。あとはその動機は何なのかというところにどうしても議論の焦点が移ってしまうということだろう。

 これに対し、筆者が試みたように、そもそも伴氏が門に放火することはありえない、にもかかわらず、どうして最終的に放火犯として断罪されることになったのか。この間にどのようなカラクリがあったのか。真犯人はどのような謀略を用いて伴善男を放火犯に仕立て上げたのか、と問いを立て、あれこれ推理を展開してみるという方法もあるのである。

 『日本三代実録』の記述のみを拠り所として変の真相に迫ろうとすると重大な問題点にぶつかる。既に述べたように、それは8月3日の大宅鷹取による告発が明快に記述されているのに対し、応天門の火災後に伴氏側が「左大臣が火付けの犯人である」と朝廷に対し告発をしたかどうかについての記述がない。つまり伴氏側からの告発がなされたとは読めないことである。むしろ伴氏からの告発こそ時系列に沿って明快に記述されていなければならないはずであるが、それが欠落している。したがってまた伴氏の告発に対する帝による源信への無罪宣下についての記述もないわけである。なぜこれら二つの出来事が記述されていないのか、この点にこそ重大な秘密が隠されているのではないかと考える。

 これに対し『宇治拾遺物語』中の『伴大納言、応天門を焼く事』の説話は明快である。伴善男による源信告発のことと、これに対する帝による源信無罪の宣下のことが前段にしっかりと記述されている。

 

第八章 『日本三代実録』が隠した出来事

一 『実録』の記述の検討

 先ほど述べたことを繰り返すようであるが、時代が下って鎌倉時代前期には成立したとされる『宇治拾遺物語』に収録された『伴大納言、応天門を焼く事』の説話には、

 ①応天門の火災後の伴善男による左大臣源信が犯人であるとの告発

 ②これに対する帝による源信無罪の宣下

という二つの重要な出来事が前段にしかも明確に打ち出して書かれてある。

では、この出来事は基経の子の藤原時平らが撰者となり901年に成立したといわれる朝廷の公式文書『日本三代実録』ではどう取り扱われているのか少し探ってみたい。

 『日本三代実録』の貞観8年(866年)閏3月10日の門火災から同年9月22日の有罪判決までの間の記事においては、これら二つの出来事はまったく出てこない。このことは前章でも述べたことである。

 ただ応天門の変後、2年以上経過した貞観10年閏12月28日の条の源信の薨伝記事において、事件との関連性を伺わせるような、右大臣藤原良相と伴善男による源信邸包囲の記事がある。引用すると、

 

八年春、使を遣りて大臣家を圍守ましめんとす。善男の右大臣藤原朝臣良相と通諮りて行ひし所なり。時に太政大臣此の事有るを知らず、發聞至るに及びて、愕然として色を失い、卽便奏聞して事の由を探認る。帝、『朕曾て聞かざる所なり』と宣り給ひき。爰に勅して参議右大辨大枝朝臣音人、左中辨藤原朝臣家宗等を遣りて前後慰諭せしめ、中使相ひ仍りき。大臣、始めは則ち危惧心に在りて、救恤するに計なし。勅慰を蒙むるに及びて、死灰更に燃え、虎口既に免れき。(後掲『読み下し日本三代実録上巻』p439)

 

この記事について、佐伯有清氏は次のとおり解説している。引用すると、

 

信の薨伝は、この出来事をただ貞観八年(866)の春とし、また善男・良相らが、信を応天門の放火犯人だとして、彼の家を包囲させたとは、語っていない。つまり、この出来事が、応天門の炎上の前か後か、その時間的関係はもちろん、事の理由についてもはっきり伝えていないのである。『三代実録』貞観八年閏三月前後の本文記事の行間にも、そのような事件は片鱗さえのぞかせていない。(後掲佐伯p237)

 

 また右大臣良相らの行動を聞いて愕然とした良房が、天皇に奏上し、事の次第を探り、天皇も聞いていなかったことであり、天皇の命令で使者が送られ、左大臣は天皇の勅慰を受け、虎口を免れたとあるが、「天皇の勅慰を受けて、虎口を免れた」とは具体的にどういうことを意味するのか、抽象的な表現になっているため、はっきりしたことは何も分からないのである。良相らに捕縛されそうになった源信が、天皇の命令により危機を脱することができたということは分かるが、このことがどういうことを意味しているのかについては、『日本三代実録』の記事だけからは、明確には何もいえないというのは、たしかに佐伯氏の指摘するとおりであろう。

 『日本三代実録』しか知らなかった当時の読み手にとっては、源信の薨伝記事に引用された出来事を読んでも、応天門の変との関連性など想像の仕様もないのである。

 『日本三代実録』の編集者時平は、時系列を大幅に後方にずらし、記述の仕方についても巧みに言葉を選ぶことにより、源信の薨伝記事の中に見える源信邸包囲の記事が、応天門の火災と関係があるかどうかについては口を閉ざしたということだろう。

 編集者時平は、理由があってあえてこのような記述方法を採用し、本章冒頭で掲げた、①応天門の火災後の伴善男による左大臣源信が犯人であるとの告発、②これに対する帝による源信無罪の宣下、という重要な出来事を隠したのではないかと考える。

 

二 他の史料を重ね合わせることによる推理

 そこで、『宇治拾遺物語』に収録された説話や『伴大納言絵巻』、さらには『大鏡裏書』などの他の史料も参考にし、これらを重ね合わせてみることにより、はじめて源信の薨伝記事の中に見える源信邸包囲の「出来事」の内実をある程度推測することが可能になるのである。

 佐伯氏は、応天門事件の内幕を知る極めて重要な手がかりとして『大鏡裏書』から関係箇所を引用しながら、次のとおり述べている。

 

『大鏡裏書』によれば、応天門が炎上したとき、右大臣良相が、善男と相談して左大臣信を退けようとし、ともに陣座に参じ、当時、左近衛中将参議であった藤原基経を急に呼び出して、つぎのように語ったというのである。良相は、基経に対して、「応天門の失火は、左大臣の仕業である。急いで官職を辞めさせ、召喚しなければならぬ。」といった。基経が、「このことは、太政大臣も知っているのか。」と聞くと、良相は、「太政大臣は、ひたすら仏法を信じて、政務から離れているから、このことは知らないはずだ。」と答えた。そこで基経は、太政大臣の預かり知らぬことを知って、「事は、重大である。太政大臣の処分を蒙らなくては、たやすく承行できない。」と報じて、良相のもとを辞去し、職の曹司に到って、事の次第を良房に報告した。良房は、これを聞いて驚き、早速、人を遣わして、「左大臣は、天皇の大功の臣である。その罪の真偽がはっきりしないのに、戮におとすのはどういうことなのか、その理由がよくわからない。もし左大臣が、どうしても罰せられるならば、その前に老臣がまず罪に伏したい。」と天皇に奏上せしめた。清和天皇は、もとより信のことは聞いていなかったので、大いにこの怪報に驚いたというのである。(後掲佐伯p235・236)

 

また、この『大鏡裏書』記事については、佐伯氏は、信用できる記事であり応天門の炎上後の出来事であろうと述べて、信用の裏付けとして次のとおり述べている。

 

『大鏡裏書』にみえる記事は、承平元年(931)九月四日夕、参議藤原実頼が、醍醐天皇の皇子重明親王のもとに来て語った古事を、重明親王が、その日記『李部王記』に記しとどめておいたものの逸文であって、その古事は、実頼が父の忠平から聞いたことであった。しかも、忠平は、おそらくこの話を直接父の基経から聞いたか、または兄の時平から又聞きしたものと考えられ、その細部はともかく、かなり信用できる話なのである。ただ基経と、その養父良房のことに関しては、修飾されている部分もあろうが、その事件が、実際あったのは、応天門炎上のあとであったとみなしてよかろう。(後掲佐伯p237・238)

 

 まず、『大鏡裏書』の記事と重ね合わせてみることにより、『日本三代実録』の源信の薨伝記事における曖昧な表現の裏側に隠されていたものが何なのかをかなり鮮明に再現することができるだろう。

 『日本三代実録』ではまったく触れられていない、応天門の火災後の、朝廷内の動きが伝わってくる場面であり、良相と基経の緊迫したやりとり、天皇への奏上へと到る良房の動きが、生々しく語られている。とりわけ火災後の事件処理にやはり藤原基経が関与していることは注目すべきことである。

 ただ良相、善男のとった行動は、放火犯とされた左大臣を退けようと、一種のクーデター的動きを起こしたかのようにも受け取れるところである。はたして良相は律の手続きを踏まえずに行動を起こしたのだろうか。しかも伴善男も良相と一緒になって行動しているかのような印象を受けるところでもある。

 佐伯氏は、『日本三代実録』の貞観8年5月13日の条に「諸衛の人、殿下に仗陣す」とある記事から、「あるいは、良相・善男らが、左大臣信が応天門に放火させたと主張し、信の家を包囲しようとして清和天皇を驚かせたのは、5月13日前後のことであったのかも知れない」とし、その後で、「この悶着が一段落すると、もはや応天門の怪火は、迷宮に入った感があった」と述べている(後掲佐伯p238・239)。

 

 

 はて「良相・善男らが、左大臣信が応天門に放火させたと主張し」とあるところの「主張し」とは法的にどういうことを意味するのであろうか。「悶着が一段落し、事件が迷宮に入った」とはいったいどういうことであろうか。この後、佐伯氏は『宇治拾遺物語』に収録された説話の世界などに踏み込むとともに、再度『日本三代実録』の記事を引用しながら、あれこれ推理を展開しようとするも、佐伯氏も狭い思考の迷宮をさまようばかりであって、結局、応天門の変の真相については読者の想像にまかせるという結論で終わっている。

 せっかく源信の薨伝記事にある出来事と『大鏡裏書』の記事を引っ張ってきながら、しかも、『大鏡裏書』の記事については高い信用性を認めているのであれば、『日本三代実録』の記述の不足を補うものとして活用が可能であるにもかかわらず、佐伯氏においても正史とされる『日本三代実録』の記述に拘泥するあまり、つまり門火災から8月3日の大宅鷹取による告発に到るまでの間、事件の真相に迫るような記事が『日本三代実録』には見あたらないことに加え、肝腎の律の法理をまったく閑却しているため、結局『日本三代実録』が意図的に伏せた事件の内実の掘りおこしができずじまいなのである。

 

 そこで筆者のほうで『日本三代実録』が伏せた門火災後の朝廷内の動きを再現すると、次のようなことになるのではないか。

 実際のところ、律の規定を無視してクーデター的に良相と善男の二人が動いたということはありえないだろう。まず伴善男から源信が放火犯人であるとする告発状が朝廷に提出され、これが受理されて、右大臣藤原良相は太政官の実質的な最高責任者として、律の規定を踏まえて、次の段階として源信の取り調べを行うために、源信の逮捕に動いた。そして伴善男は、告発が受理された段階で当局の拘禁の下に置かれた。一方良相の行動を察知した基経は、急ぎ良房を動かし天皇に源信弁護を奏上させ、源信無罪の宣旨を勝ち取り、宣旨は速やかに源信や藤原良相らに伝達された。源信は逮捕寸前のところで危機を脱した。良相は大恥をかき源信邸の包囲を直ちに解いた。このような次第ではなかったかと想像される。後の展開も含め、既に第一章で述べたとおりである。

 

三 古今伝授の源流か?

 『大鏡裏書』に関連して、もう一つここで注目すべき点は、藤原実頼が重明親王のもとに来て古事を語ったのは931年で、応天門の変が起きた866年から実に65年が経過しているということである。

 『日本三代実録』ではまったく伏せられていた、応天門火災後の朝廷内関係者の具体的な動きややり取りの内幕が、基経から子の時平・忠平兄弟へ、そして忠平から子の実頼へと口頭で伝えられているという事実である。朝廷の公式文書である『日本三代実録』には、佐伯氏が述べたように事件の片鱗さえのぞかせていないのに、文字にして公にした文書とは別に、秘すべき出来事については、口頭で摂関家嫡流の子孫に伝授して継承していくということが摂関家内では行われていたということを示しているのではなかろうか。藤原実頼が重明親王のもとに来て語った古事も、口頭で伝えられてきた歴史の秘密の部分であろう。だが秘中の秘の部分は、たとえ相手が親王といえども決して口外しなかったものと想像する。

 これが後世のいわゆる「古今伝授」にも繋がる藤原氏のお家芸なのではなかろうかと想像する。文字に起こし文書として公開した歴史と、重要な秘すべき出来事を口伝でごく限られた者にのみ伝承していく歴史の、二つの歴史を藤原氏は教養としてのみならず、一族の結束強化のために保持していて、嫡流の子孫に引き継いでいったのではないかと想像するものである。

 

四 『日本三代実録』では伴善男が放火した理由・目的が不明

 さて話を戻すと、重要なのでもう一度、貞観8年閏3月10日の門火災から同年8月3日の大宅鷹取の告発記事までの間に限って『日本三代実録』の記述を追って見ていくと、伴善男は火災発生後に告発を行った形跡は見られないのである。つまり仮に伴氏側が火付けの真犯人だとした場合には、その目的は左大臣を陥れることにあったであろうから、左大臣が火付けの犯人であると告発している記事が書かれていなければならないだろう。ところがそれが書かれていないのである。そうなると伴氏は何を目的として門の放火に及んだのか、さっぱり訳が分からなくなるだろう。8月3日に大宅鷹取に告発されるまで、伴善男らは手をこまねいて何の策も打たなかったということになる。後に伴氏は放火の罪で断罪されたわけであるが、伴氏は一体何のために放火に及んだのか、その目的や動機がまったく不明となってしまう、というのが読み手の率直な感想である。

 時平は『日本三代実録』の編集において、基本的な話の展開として、応天門放火が、大宅鷹取の告発により、伴氏による犯行とあばかれ、伴氏が放火の罪で処断されて決着を見たというストーリーとしてまとめあげることにのみ主眼を置いたのであろう。そのため貞観8年閏3月10日の応天門の火災から、あまり時を置かずに行われたであろうはずの「伴善男による源信告発」とこれに対する「帝による源信無罪の宣下」という編集前に存在したであろう記事を、時平が編集の段階で削除したものと考える。あるいはこの二つの重要な出来事をそもそも記事にさせなかったことも考えられる。

 では、なぜ時平は「伴善男による告発」と「帝による無罪の宣下」を記事にすることを、編集の段階ではぶいたのか。それは、読む側に余計な詮索を入れさせないようにするためであると考える。

編年体の形式でまとめられた公式文書であるなら、「応天門の火災後の伴善男による源信が犯人との告発」及び「これに対する帝による源信無罪の宣下」の記事は、その編纂の形式に従えば、時系列の順番で当然書かれていなければならない最重要ともいえる出来事である。それをあえてはぶいたのは編集者時平の作為であると先ほど述べたが、この二つの出来事がどれほど重要な意味をもつものであるかは、日本の律の規定についての考慮がわずかでもあれば、時の経過の順番にこれらの重要な出来事を記述していくと、いともたやすく、事件の深層にたどり着くことが可能となるからである。時平にはそのことが予想できたのであえて隠そうとしたのであろう。それはつまり法律論の展開過程である。

 

五 法律論の展開と要点整理

 では、事件を時系列的に整理し、要点を書き出してみると、次のようになる。

 ①応天門の火災発生

 ②伴善男による左大臣源信が犯人であるとの告発

 ③これに対する帝による源信無罪の宣下

 ④源信の無罪確定に伴い、一転して伴善男の誣告罪成立

 ⑤大逆の誣告は反坐により、伴善男の死刑(斬首)成立

 ⑥門放火自白を条件とする死刑の減軽(流刑)の提示

 ⑦伴善男、放火自白を承諾

 ⑧大宅鷹取による伴善男の告発(放火)

 ⑨伴善男らへの有罪判決(流刑)

 以上のような順番に論理を展開し整理できるのである。『日本三代実録』において書かれなかった、つまり隠されていた部分には下線を入れた。時平の頭の中には既に存在している論理の道筋でもある。なぜなら既に父親の基経からは、冒険談は文字にしないで口頭で聞かされていたからである。編集長となった時平は用心して上記の②と③の肝腎の出来事を、時系列をずらして、伴善男らの有罪判決の記事のはるか後方の源信薨伝の記事の中に、表現をぼかして溶かし込み、ほとんど読み取りができないような記述に変えたのであろう。

 ②と③がはぶかれると、当然ながらそこから導き出される④と⑤の法律論の展開を見つけることは不可能であるし、⑥と⑦の犯罪のなすりつけの方法に気づくことも不可能であろう。

 時平は、核心部分への推理が入り、事の真相(伴氏は放火の罪をなすりつけられたのではないかということ、真犯人が別にいるのではないかということ)が推理により浮き彫りとなるような記述を公式の文書の中に入れることをあえて避けたものと考える。

 

第九章 だまし絵、透かし絵、倒語

 『日本三代実録』だけではよく分からなかったことが、およそ300年後の鎌倉前期には成立していたとされる『宇治拾遺物語』に収録された『伴大納言、応天門を焼く事』の説話と、この説話をもとに制作されたと考えられる『伴大納言絵巻』を、重ね合わせることにより、それまで見えなかった事の真相が見えるようになるのである。なお、『伴大納言、応天門を焼く事』の説話は後白河院の時代には既に広く知られるようになっていたと考える。

 なぜ、同時代にではなく、後の時代になって事の真相が明らかになるということがありえるのか。

それは、摂関家の内部だけで、文字に起こさずに口伝により代々引き継がれてきた秘密(歴史の奥義)が、平安の後期になると院政が出現し(院政期は天皇家が摂関家から政治の実権あるいは主導権を取り返す過程である)、それにともない、摂関家の政治的威信が低下するとともに、摂関家内部での権力争いが発生している。おそらく摂関家の内紛の過程で、関係者から応天門事件の真相が外部に漏れ出したのではなかろうかと想像する。それがまず後白河院のもとにもたらされ、まず『伴大納言、応天門を焼く事』の説話にまとめられ、次にこの説話をもとにした絵画表現として『伴大納言絵巻』が制作されたものと想像する。

 後白河院が活躍したのは、保元の乱のあった時代である(当時は後白河天皇)。摂関家では、兄で関白の藤原忠通側と、弟で藤氏長者の藤原頼長・父の藤原忠実側とが激しく対立し、骨肉の争いに発展、天皇家を巻き込み、武士を使っての内戦となったのが保元の乱である。具体的には、この内紛の過程で、摂関家に代々伝えられてきた秘事の一つである応天門事件の真相が外部に漏れ出て後白河院側にもたらされたものと想像する。目的は摂関家を貶めるためである。後白河院側に秘密を漏らしたのは、おそらく関白忠通と対立し、乱に敗れた頼長側の関係者からではなかろうかと推測する。

 秘事を教えてもらった後白河院は、このような興味深い話はめったにあるものではないと大喜びし、さっそく側近を呼んで、『伴大納言、応天門を焼く事』という題名の説話の創作を命じ、さらに宮廷絵師常盤光永らと一緒になって『伴大納言絵巻』を制作するよう命じたのではなかろうかと想像する。 

 説話も絵巻もともに、裏に隠されている意図は、摂関家の先祖の悪行を炙り出すことにあった。しかし実権を失ったとはいえ、いまなお勢威を保持する摂関家であり、日常の政務処理では後白河院は摂関家に頼らざるを得ない立場でもある。彼らに対する憚りや恐れもあったであろう。彼らに真意を悟られないよう、文章表現においても、絵画表現においても、あからさまな表現を避け、仄めかし、婉曲、暗示、象徴などの方法を用いて、余計な言挙げをせずとも、事の真相が、いわば透かし絵やだまし絵のように浮かび上がってくる仕掛けを施しているのである。建前である文字言語による表現、絵画による表現の裏側に本音(内心の意図)が隠し込まれているのである。そういう表現における工夫を、倒語(さかしまごと)とも言うのであろう。倒語については、日本書紀の巻第三(後掲宇治谷108・109項)にも出てくる古くからある言葉であり、こちらが、そういう表現方法があることをよく承知し意識した上で、深層にあるものを読み解く必要があるのである。『日本三代実録』は当然ながら摂関家の立場から編纂された史料であるが、これに対し『伴大納言、応天門を焼く事』の説話及び『伴大納言絵巻』は後白河院の立場から制作されており、摂関家の秘密(悪事)を摂関家に知られずに暴こうとしているものであることを押さえておく必要がある。

 繰り返しになるが、『伴大納言、応天門を焼く事』においては前段部分において「応天門の火災の後、伴善男による源信の告発が行われたが、帝が源信を無実とする宣旨を下す」までが明快に書かれてあるが、ここまでの記述で十分なのである。この後の展開は、法律論になり、上記第八章の五で述べた④から⑦の論理となるが、説話はあえてこれらのことを文字上省略しているのである。律の規定についての知識がある貴族が読めば、事の真相は、一瞬で読み解くことができるので、あえて余計なことは記述にしなかったのである。余計なことを文字に起こせばあとで摂関家に気づかれてとがめを受け、焚書の憂き目にあうかもしれないからである。後白河院から口頭で真相を教えてもらった貴族は、律のことを知らないばかりにどうしても腑に落ちない他の貴族に対し、さも得意げに小さな声で耳打ちするように口頭でヒントだけを与え、合点のいった貴族は「ああ、なるほど、そういうことだったのか」と頷き、「たしかに伴善男が嘆いたのも無理はない」と実感したことであろうと想像する。説話と絵画に隠し込まれた事の真相は摂関家には分からないようにされ、秘かに口伝えで後白河院側の有力貴族から他の貴族へと伝えられていったのであろう。摂関家のお家芸であるこういう伝言ゲームを今回は後白河院側が真似したということになろう。

 ヒントとして口伝えでのみ語られてきたことを、今日の人が納得しやすいよう、あえて説明的にくどくどと述べるとなると、上巻の第一章の二(隠されていた法理)や第八章の五(法律論の展開と要点整理)のところで述べたようなことになるのである。

 

第十章 「いかにくやしかりけむ」

 『伴大納言、応天門を焼く事』の説話の末尾にある「いかにくやしかりけむ」(語訳:どんなに悔しかったであろうか)について、「伴大納言の野望や陰謀を非難するのではなく、むしろそれを積極的に肯定して、彼の心情によりそって解釈した文言」(小峯和明氏)との見解もあるが、この解釈は伴善男が放火の真犯人であるとの前提に立っての実に素直な読み方と言えよう。こういう解釈もありえるのかもしれない。しかしながら「いかにくやしかりけむ」のこの一言は、その直前の文章の「応天門を焼きて、まことの大臣におほせて、かのおとどをつみせさせて、一の大納言なれば、大臣にならんとかまへける事の、かへりてわが身罪せられけん」(語訳:応天門を焼いて、左大臣源信に罪をかぶせて罰し、伴善男が大納言から大臣へと出世しようと計画したが、逆に自分が罰せられることになった)とそぐわず、一転して不可解と思われる言葉で物語を結んでいるのである。前の文脈と整合性をとるなら、仏教説話も含む『宇治拾遺物語』であれば「自業自得なりけり」とかいった言葉で話を結んでしかるべきところ、そうはなっていないのである。「あれ、何かおかしい?」との疑念がすぐわいてくるような結びの言葉ではなかろうか。この奇妙な感じに注意を払うことが重要である。つまりたった一言で、それまでの話をひっくり返してしまい、正反対のことを暗示しようとしている。そういう言葉の使い方がなされているのである。まさに説話の題名のとおり、表向きには伴善男が応天門の火付けの犯人であると装いながら、実は伴善男は犯人ではない、というのがこの説話に込められた内心の意図なのである。説話の前段部分に隠しこまれた法律論の展開過程が理解できれば、「いかにくやしかりけむ」との伴善男の心情について、「ああ、なるほど」と了解できるであろう。「伴はワナにはめられたのではないか」、「放火の真犯人は別にいるのではないか」といった想像を、物語作者は読み手の心の中に喚起しようとしているのである。

(下巻につづく)

 

(参考文献)

1)黒板勝美・国史大系編修会編、『新訂増補 国史大系 22 律』、吉川弘文館、1966年。p141

2)律令研究会編、『訳註日本律令 7』、東京堂出版、1987年。p362-368

3)利光三津夫、『日本古代法制史』、慶応通信、1986年。p113-119

4)黒田日出男、『謎解き伴大納言絵巻』、小学館、2002年。

5)黒田泰三、『思いっきり味わいつくす伴大納言絵巻』、小学館、2002年。

6)倉西裕子、『古代史から説く伴大納言絵巻の謎』、勉誠出版、2009年。

7)佐伯有清、『人物叢書 伴善男』、吉川弘文館、1970年・新装版1986年。

8)鈴木琢郎、『日本古代の大臣制』、塙書房、2018年。第十章 摂関制成立史における「応天門の変」 

9)高橋貢・増古和子、『宇治拾遺物語下全訳注』、講談社学術文庫、2018年。p154-174

10)武田祐吉・佐藤謙三訳、『読み下し日本三代実録 上巻』、戎光祥出版、復刻版2009年。

11)宇治谷孟、『日本書紀(上)全現代語訳』、講談社学術文庫、1988年。

12)伴大納言絵詞 - Wikipedia