やっぱり本を読むことと字を書くことが好きなのは変わらないようで、今は『奇跡講座』を読んでいます。


上巻がテキスト、下巻がワークブックになっていて、同時進行中。


キリスト教というか、聖書の言葉や概念を使って書かれているけれど、自我とそれが作り出す世界は幻想であるということを、徹底的に語っている感じです。


まだ序盤もいいところだけど、これまでやってきたこと、気づきの道のりがまんま描かれているぞ、と思っています。



五感と、私という感覚や思考体系(いわゆる自我)が同時に完璧に現れて、この現実世界という幻想を創り出しているのだと知る体験がときどきあってから。


ああ、これ本当に夢だ。


「私」も幻想だ。


じゃあ、生きてる間楽しく生きてればそれでいい。


悩む必要なんてない。オールOKびっくりマーク


そんなふうになりました。


それはそれでとても軽やかな感覚でした。


でも、生きるってこれでいいのかな、とも思っていたのだと思います。


この世界の素晴らしさを、わたしは全部夢だと片付けようとしていました。



そんなとき、ふと恩師に会いに行こうと思い立ちました。


はっきりと指摘はされなかったけれど、私のその在り方はある種の虚無だと言われたように思いました。


確かに人としてこの世界に命をいただいて生きていること。


心をこめて意識的に、すべてに感謝をもって生きること。


それが生きることだと聞きました。


はっ、となりました(笑)



そうするとどうなったか、というと。


普通に生活する中で、時おり意識が混乱しましたグラサン


今、雑だったよねはてなマーク


意識、どこかさまよってたよねはてなマーク


意識的に、心をこめて、って言うけど、その「私」って何よはてなマーク


みたいに。



それもそのはず。


この一連がずっと、自我の紡ぐストーリーだったから。


そう、この世界は幻想だ、という思考さえもです(笑)


自我ってほんとに巧みというか。


もっともらしい気づきでさえ、思考でしかない。


握って語り始めたら、自我の思うつぼ。


でも忘れちゃうんだよね、いい感じの思考とかだとね(笑)



そんなこと言ったら何も書けなくなるやん、と思ったらしばらくほんとに何も書けませんでしたてへぺろ



「私(自我)」は幻想だけど、わたしはいる。


自我はわたしと別物ではなくて、その心の一部の働きみたいなもの。


わたしを守ろうとしている、とか、前世や教育やなんかの影響で出来上がった、とか、いろいろ言われているけど、まあなんでもいい。


それが、わたしの本来の心のありかたを見事に覆い隠してきた、そういう存在。


その本来の心は、いつでもずっとあるのに。



長い間ずっと、この自我が自分だと思ってきた。


たくさんの感情や思考を手放して、自我は幻想だと知ったけど。


究極、自我は幻想だと知った、とか言ってるのが自我なんだよっていう話になるよね(笑)



ほんとうの「わたし」とは「自由」そのものなのだと知りました。


わたしが自由になんでもできるって言う意味じゃなくて。


「わたし」がいるとかいうそういう感覚すらなくて、静かな歓びの中にいる。


生きているとか幻想だとか、そんなことも思いもしない。


そしてすべてを慈しむ。


自由とは、なんの思いにもとらわれていないこと。



言葉にすると何か違ってきちゃうけど(笑)



だから思考から離れることがすべてなんだけど。


思考について何らかの心の揺れがあるなら、それはもう自我の世界にはまってる。


だからすべてをさらりと受け流す。


ムーディー勝山さんのネタやん(笑)



心はどこまでも自由に、純粋になれる。


それは達成すべきものでなくて、思い出すもの。



奇跡講座を読んでいて、今思うことでした。




こんなきれいな生地がありました。


どちらの色もきれいで選べなくて両方買いました。


自我まみれやん(笑)





薄いから夏物にします。

前後で色の違うワンピースとかどうかなはてなマーク