前回、意識のありかを問われていると書いたけど。


それはある意味その通りで、とても大切な視点のように思える。


けれどそれは同時に、気のせいでしかない。



わいては消える思考は、真実ではない。


これが好きとか、これはきっと何かのサインだとか、反対にこれは良くないとか好きになれないとか。


思考はどんどん出てくるけど、その思い込みもぜんぶ気のせい。



過去にあったと思っていることも、過去生も。死後の世界はこうだとか、魂だとかも。


こうだ、と信じてもかまわないけど、実は気のせい。



もっと明らかじゃん、と思っていることさえ、ただの思い込みで。


ここは地球で、日本で、私の名前は◯◯、家族は夫と、結婚した娘。


これも、まあその通りなんだけど、本当のところはやっぱり気のせいでしかない。


人生というストーリーぜんぶ、気のせいなんだ(笑)



思考や、言葉を使って語るということが、気のせいでしかない世界をリアルで複雑なものにしてしまうという難しさよグラサン


本当はこんなにシンプルなのに。



でも、気のせいだと語るコイツが、かなりのやっかい者ではある。


気のせいでしかないエゴが、存在し続けるためならなんでもする、という側面があるから。


もちろん、それも気のせいだけどね(笑)


そのように思う『私』という個人が気のせいだから。



私とは仮設の観察点。観察といっても、そこに本来言葉はない。


そんな感じかなと今は感じています。


まあ、気のせいだけどね(笑)




それでも梨はおいしいのだ(笑)