目の前のことをていねいに。
最近のテーマです(笑)
これって禅の世界と通じます。
『威儀即仏法 作法是宗旨』
(いぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし)
礼儀にかなった振る舞いをすることがそのまま仏法であり、すなわち立ち居振舞いの全てを整えることがそのまま禅の修行であるということ。
ちょっとまた修行モード入ってる?(笑)
無心と無意識は違うなあと最近思います。
私に起こることは全自動だな、と思っていたときは、観察者の視点はあるけど、行為は無意識のうちに淡々と行われている感じだった。
今は全てを見ている観察者の視点がありながらも、「わたし」がひとつひとつ意識的に行為を行う感じ。
で、心をこめてと言っても、「ていねいに」とか思っているときはまだちょっと余計な思考が入っていて。
本当に無心で集中しているとき、余計なものが何もないとき、ただその行為だけが流れるようにあるという感じになります。
ていねいにをばりばり意識した結果、達成されるのは「無我」だったりするとはよくできてる(笑)
でも、このときは決して無意識ではないんだよね。
最近読んだ禅の本から、すごくしっくりきたので記録です。
…かれ(禅匠雲門)もまた、ある時、大衆の前に杖を持ち上げて言った。
「経典によれば次のように言う。無知な者はこれを真実のものと思い、小乗の仏教者は、それは存在しないものとし、縁覚はこれを幻であるとみなす。しかるに、菩薩はそのあるがままの実在を認めるが、しかもそれは本質的に空であると言う。しかし僧たちよ」、師はさらに続けて言った、「お前たちはこれを見るとき、ただ杖と呼ぶがよい」
『禅』鈴木大拙
地に足をつけて生きようぞ(笑)
またまた話は変わりますが、映画『PERFECT DAYS』を見てきました。
主人公の生き方は、禅の世界に通じるものがあるなあと思いました。
映画の描きかたも。
過去に何があったかは説明がない。
観た者が推測するもしないも自由。
たんたんと、今が映し出されていく。
2時間ほどの映画としては、たぶん台詞がとても少なくて。
そのなかで心に残った台詞がありました。
家出してきた姪っこに、「お母さんは、おじさんとは住んでる世界が違うと言ってた」と言われたとき。
主人公の平山さんは、繋がっているように見えて、みんなそれぞれ違う世界を生きていると答えます。
兄と妹の「世界が違う」の認識は、同じように聞こえるけど違うなあと思いました。
もうひとつは、お休みの日に行くスナックのママの別れた元夫の台詞。余命わずかな状態です。
彼は、影は重なると濃くなるのか、そんなことがわからないと。
「なんにもわからないまま、(人生が)終わっちゃうんだなあ」
本当に、知らないことやわからないことだらけだ。
でもそれをわかっていることが大事なのかも。
本当に必要なことは、知るようになっているということも。
主人公は、ともすれば単調に見える毎日を、たんたんと、ていねいに生きている。
ていねいとは時間をかけることでもない、というのも感じました。
そんな生活にときどき小さな波風が立つ。気持ちにもひとときの波風が立つときもある。
そんなときも、できることをするだけ。
ラストシーンに流れた『Feeling Good』という曲も素敵でした。
It's a new dawn
It's a new day
It's a new life
and I'm feeling good
新しい夜が明けて、新しい日が来た
新しい人生だ、いい気分だ
毎日が、毎瞬間が、新しい。
いま自分がしていることに、夢中になろう。
何もしない、すら満喫しよう。
なんだかまとまりがないですが終わります(笑)