心をこめてていねいに生きる、ということについて前回書きましたが。
今日洗濯機を回そうと、あちこちのタオルを交換したときのこと。
まずは同じ引き出しの中から、使用箇所ごとに分けて置いてあるタオルを必要分取り出します。
そしてキッチンや洗面所やらを回り、使用済みタオルを外して、今出したタオルをかけていきました。
そして外してきたタオルを洗濯機へ。
はい全自動~(笑)
一応、ていねいにね~、という意識はあったんだけど
起きていることは完全に全自動だなあと思いました。
これはどこのタオルで、とかまったく考えることもなく、流れるように一連の作業が終わりました。
この世界の仕組み、これが夢だと知っていく途中で、行動も思考も全自動だということを確認する、というのを一時期徹底してやっていました。
脳が信号を出すより前に、身体は動き始めていると読んだことがあるけど、ホントそうだろうなと納得できるくらい、全自動でした。
これをやろう、と思いついて動いたとしても、その思いだって自動でどこからかやってきたものだしね。
なのでいつのまにか、何についても「どうせ全自動だし」という認識になっていたことは否めません。
投げやりな悪い意味ではなくて、気持ちが軽くなる方向だったけどね
心をこめてていねいに、って、ある意味真逆なんだよな、と思いました(笑)
どんなことも、ていねいに選んで、ていねいに取り組む。
「私」が幻想だと知って、それでも「私」を生きていく。
人生を味わっていくということなのだと思います。
心をこめて、ていねいに、と言えば。
こないだ久しぶりにお会いした内山エナさんが、ずっと以前におっしゃっていました。
不要な感情を手放し、統合が進むと、姿勢もよくなり、やることがていねいになると。
そのときは、その意味もよくわからなくて、しかも興味もありませんでした。
そういうことが知りたい訳じゃない、と思っていたのだと思います(笑)
現実を全部ぶった切って、納得いくところまで行ったから、現実をていねいに生きることに戻るタイミングになったのかな。
最初からやっとけよ、と思わなくもないけどね
所作を整え、一つ一つをていねいに、というのは、禅の考え方とも一致します。
回り道なようで、ちゃんと私にとって必要な順番だったのだろうと思います
二度目の蜷川実花展にて。