る運四十八手 その十二
型にはまれば勘が鈍る。軀の構造を視て、こうあるべきとおもった瞬間に身というものは等しく不自由になり、美が散る。では、型やぶりでよいのかと問われれば、またそれも違うと云わざるを得ないが、文字どおりの型どおりでは家畜くさくてかなわない。そもそも型というものはその場その場で自ずと生じる。むしろ場が軀をつくるが故に、型ができると云ったほうがよい。ここでなければならないという場があり、その場であったがために出逢いがあったということが多々ある。
これを識る作家は一文をつくりだすための場の投資に惜しみがないし、ダンサーは己の軀が著しく変容する場を視つけては、場ごと舞う。縄文時代から結界を用いて、清まった場を創造してきた香りが日本にはただよっているけれども、それこそが一座建立の美と云えるのではないだろうか。兎にも角にも、勘が濁れば場が枯れる。枯れ場からは構造の奴隷となった軀しか生じない。あゞ、身は美味である。