礼賛四十八手 その十一
現実とは幻想である。だが、なかなか消えようとしない。……人間とは宇宙と呼ばれる全体の一部であり、それが時間と空間で区切られているに過ぎない。人は自身の思考・感情を、それ意外と分けて経験するが、それは自己の意識が作り出す、或る種の視覚的な錯覚に過ぎない。こういった錯覚は一種の牢獄のようなもので、個人的な欲求や、すぐ近くにいるごく少数の人々への愛情を制限する。私たちの使命は自身をこの牢獄から解き放つこと、そのため思いやりの輪を広げ、生きとし生けるものと自然全体の美しさを受け入れることでなければならない。一見スピリチュアルに視えるこの文章を草したのは、天才物理学者アインシュタインである。否、個人的にはアインシュタインは天才とは云いたくないのだけれども、この文を視る限り、あゝやはり識っていたのだとおもう。つまり、軀が私なのではない、宇宙こそが私なのだ。こう表現してしまうとなんとも突拍子もなくなってしまうのだけれども、時空で区切られた微小の宇宙ひとしずく。これを私だと幾度も洗脳され続けることが一般的な教育である。アインシュタインはこれを牢獄と表現している。
軀とはカフスに過ぎない。
ワイシャツですらない。全体の私から較べたら、軀なんてものはシャツの袖口に光る一対のアクセサリーなのだ。したがって、健康なる幻想はカフスが綺麗にとまっているか否か程度のものであるし、死もカフスを変えることでしかなく、このような周波数の変化に私という存在が消えるわけでもない。監獄にいれられた人間は、カフスが凡てだとおもっている。よくても一対のカフスどまりである。アイシュタインのカフスを外したいのであれば、実際にその時空で区切られた牢獄なるものから、脱獄した者たちを周りに囲むのが最速ではないだろうか。一期は夢か。さあ、狂え。