軀の生成意味論 その三十九
動物園の動物を家畜化と云ってよいのか否か、私にはわからないが、彼らが暴れるのは動物園にいれるときよりも、でるときなのだそうだ。せっかく檻が取り払われて、自由が眼前にあるというのに、家畜化された動物たちは檻のなかにはいっていたいと暴れだすのである。無論、これは家畜化された現代人にもあてはまることで、成功哲学や経営理論など、私にはさっぱりだが、そのようなことを永く勉強されてこられたにもかかわらず、いざ起業となると、暴れだす方がおいでになる。要は、会社に飼われていたいのだ。別に、私は会社員が悪いとは云っていない。しかし、人間は自由のためにと動いておいて、いざ自由になると檻にはいりたがる動物なのかもしれない
とは申しあげたい。私はこのような方々と縁ができると、小指を視る。檻にいかにいたいかという戯言に頷きながら、小指の向きを整えるようにしているのだ。不可思議なことに、小指はレシーブと関係がある。眼前のとるべきものを受けとれない人の小指は曲がっていることが少なくない。したがって、私がさりげなく小指をいじりはじめたならば、その人は私にこいつ腰がひけてんなとおもわれていることになる(笑)。このとき私は、別に整骨院みたいに小指をバキバキ鳴らして整えるようなことはしない。静かにその方のエネルギーの流れが、小指に流れるように調整しているに過ぎない。本当は触らなくてもよいのだけれども、やはり整えてますよという偽善に満ちたわざとらしさは時として必要だとおもう(笑)。