見物四十八手 その四 食事ヲ見物 | 『高堂巓古 Officia Blog』

見物四十八手 その四 食事ヲ見物

$『庭球四十八手』-photo.JPG 鮨はどこどこに限るとか、ビフテキはどこどこの肉でないと口に合わないとか云いだしたら、その男は年をとった証拠であるとたしか稲垣足穂が記していたが、あなた方の眼にはいかがにうつるだろうか。この足穂の食事に対する視点は激しく、私は賛同できない部分もあるがひどく惹かれる。まず肉は、豚や牛が不自然なものを食べているんだから、駄目。魚も野菜も人の食べ物ではないし、米も五穀米であろうが玄米であろうが、血を汚すと空海が云っているというものだから、食うものがなくなってしまう。故に、酒だけ呑んでいればよいという発想である。沢庵も、飢まで食をとる必要なしと云っており、食事に対して厳しい。茶を芸の領域まで高めた宗易でさえも、こちらは多少意味が異なるが、飢えぬ程度としている。


 舌はわずか十何センチの勝負である。味覚で何を聴くのか。食事に関しては、このような話になってくるわけであるが、というのも筋肉であり、消化器官の頂に位置していることを人は忘れがちである。庭球でも何でも、舌を動かせば重心を操れ、舌の奥を緩めれば全身がリラックスする。その舌に日本人は箸でもって、食べ物を運ぶわけであるが、これがまたよい。箸の場合はスプーンなどと異なり、薬指を使うからだ。薬指はインナーマッスルが指のなかでとりわけ長いので、所作を視る上ではもってこいである。箸の話は別の機会に譲ろう。食事で兎や角云われたくないのであれば、人様に食事を視せぬことである。平凡な蕎麦屋で所作がたしかな人を視ると、日本もまだまだ捨てたものではないなとホッとする。逆に、銀座の蕎麦屋でひどい箸と舌を視ると、日本は滅びるなと直観するが、あれはなんなのだろうか。旨いものであれ、そうでないものであれ、平常心と所作を添えて食すのがよい。旨いもの喰いは駄目という言の葉があるが、私のまわりではたしかな旨いもの喰いも多くおいでになる。食事で人を視るとき、その方の背(そびら)側から視ると、一切を誤魔化すことはできないとだけ云って、今週をはじめたいとおもう。いただきます。