しかしま~、洗礼者ヨハネとサロメのお話っていろんなことが渦巻いてますね。

そしてまだまだいろいろあるんですが、とにもかくにも、時は19世紀末。

いわゆる頽廃を極めた「世紀末芸術」が大流行りの中その代表作と目されるオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」。

 

スキャンダルに次ぐスキャンダルを巻き起こすこの作品、ぜひ本文をお読みいただきたいですが、大筋は聖書のものと同じ。

かいつまんででいうと、

 

ユダヤの王・ヘロデは、兄の妻を娶ったことで、荒野の聖人こと洗礼者ヨハネに厳しく批判される。

そのため、王はヨハネを投獄したものの、世間体を考えて処刑まではできずにいた。

ちょうどそのころ、王のもとに客人がやってきたため、王は娘である王女・サロメの舞いを所望し、「舞ってくれたらなんでも褒美を与える」と約束する。

サロメは舞い終わると褒美としてヨハネの首を要求し、ヘロデ王は誓約に縛られ、ヨハネを処刑する。

 

というお話です。

オスカー・ワイルドが原作であるところの聖書を大きく変えているのは、サロメが首を欲しがる理由。

聖書では、

「サロメはヨハネにあったこともない。サロメの母親である女王ヘロディアードが、自分とヘロデ王の結婚を非難するヨハネを始末したいため、娘を使ってその処刑を執行させた」となっていますが、

ワイルド版では

「サロメはどうしても牢の中にいるヨハネを見てみたくなり、牢番を色仕掛けで誘惑し、その願いを聞き届けさせる。ヨハネを見たサロメは激しい恋に落ちるが、ヨハネはサロメを一切受け付けないまま牢に戻る。サロメは『必ずその唇に口づけして見せる』と誓う。サロメがヨハネの首を欲しがったのはその口づけのためであり、実際、首を手に入れた後、その冷たい唇に口づける」というところ。

そのあとにもう一つすごいオチが来ますが、それは原作を読んでいただいてのお楽しみ、ということにしておいて、

 

ともあれワイルド版でのサロメは、処女(劇中で本人がそう言ってる)でありながら天性の魔性の女っぷりで好きでもない男を誘惑して操ったり、振り向いてくれない好きな男にキスをしたいあまりにその首を欲しがる、という・・まあ・・なんていうか、元祖「ヤンデレ」ですよね~。

ヤンデレ・ヒロインが市民権を得ている(?)この時代にさえ、好きな男の生首に口づけるというところまではなかなか至らないとおもうので、元祖にして最先端。これぞ世紀末。

 

それともう一つ、ワイルド版のサロメがすごいのは、その「舞い」に関する描き方。昨日ご紹介したギュスターヴ・モローの絵の中でも舞い終わったサロメは明らかに「脱いで」いましたが、おそらくそれに着想を得ているのでしょう、ワイルドはこの舞いを

 

七枚のヴェールの舞い

 

と表現しています。しかも、その舞いのシーンの記述は無し!

 

いやこれ絶対あれだよね、七枚のヴェールを次々と脱いでいくやつじゃんね! 説明がないだけにいろいろと妄想が膨らむうえ、これは「戯曲」。舞台での公演を前提とされたものであり、そして説明がないだけに、振り付けは演出家の自由。

同じく世紀末の鬼才イラストレーター・ビアズリーによる挿絵はこちら。いや~センス炸裂ですよね。

 

とまあこれだけで、世紀末的ファム・ファタール(男をダメにするヤンデレヒロインという解釈でだいたいOK)を描いたものとして十分すぎるほどの迫力、全世界の「サロメへの妄想」をすべて形にしてくれたような思い切りの良さなのですが、

 

これを、世界を代表するBL(男色)界のスーパーヒーロー、オスカー・ワイルドが書いているというところが本当に味わい深い。

 

読んでいただくとわかるのですが、サロメがヨハネと出会い、その姿の美しさを賛美する場面はなかなかキてます。

通常ならば、どちらかといえばサロメの美しさがクローズアップされるべきドラマであるにもかかわらず、当のサロメが徹底的に囚人であるヨハネの肉体の美しさを徹底的に褒め上げるという・・これは間違いなく、オスカー・ワイルド本人が、その同性の恋人の肉体を賛美しているものでしょう。そしてその肉体への渇望を。

 

そしてヨハネ、徹底的にサロメに興味なし!!

 

みんなの妄想も具現化してくれたけど、オスカー・ワイルド自身の妄想もぎっしり詰め込んであるこのお話。

次回で、サロメについては一段落できるかな~!