さてそろそろどうにか締めたい、洗礼者ヨハネ。

 

ところで私、イタリアにまつわるお話の調べ物はたいていイタリア語でするのですが、ヨハネのことを調べるたびに

Giovanni

と検索ワードを入れます。ジョヴァンニ、なんですけど、ええそうなんですイタリア語だとヨハネはジョヴァンニ。

洗礼者ヨハネ、の場合は

Giovanni Battista

ジョヴァンニ・バッティスタ。急に、欧州のどこかの国の有名サッカー選手の趣が漂います。

もちろん、Battistaというのは「洗礼者」という意味なので、ジョヴァンニ・バッティスタは間違いなく「洗礼者ヨハネ」のイタリア語なのですが、なんていうか、日本語の語感が与える「洗礼者ヨハネ」の印象ってやっぱり特別だとおもう~っていうか聖書関係の翻訳はほんとうに絶妙。これほどまでの神秘性を与えるワーディングと固有名詞の取り扱いはもはや奇跡、と思います。

Giovanniって、現代イタリアにもごくごく普通にいるし、Battistaという言葉もそこまでの非日常感はない。

だから無理やり超訳してみると、イタリア人にとっての「Giovanni Battista」って、「偉いヨシオ」くらいの日常度というか非日常度の言葉なんですよ。

対して日本の「洗礼者ヨハネ」の神秘性と言ったら!

 

まあそんな、意識/無意識下に漂う呼び名や固有名詞にもなんとなく思いをはせながら、カラヴァッジョが偏執的に描き続けるSan Giovanni Battistaをお届けします。(Sanは日本語で言うところの「聖」ですね。聖人の頭にはこれが付きます。なので、日本人の敬称であるところの「~さん」という言葉もイタリア人にとってはある種の笑いになりますが、それはまた別の機会に)

 

前回ご紹介した「なぜ少年なんだかちっともわからないヨハネ」は、もちろん成長して、こんな風になります。

育ったね~

 

実はいろろと水面下で教えていただいているBLの世界ですが、さらに色々調べるといろいろなことが分かってきてそれはそれですごいんですが、BL(年若い少年を愛するもの、という定義)の当然の帰結として、少年、育ちますよね。

美しい少年だから愛されていたものが美しい青年になったらどうなるのか、というのもなかなか味わい深いお話だと思うんですが、まあとりあえずカラヴァッジョ的には育ってもOK!のようで。

 

引き続き、ちっとも誰だかわからない、十字架の形の木の杖と、動物の皮を腰に巻いてる、ってことで洗礼者ヨハネだってことがギリギリわかる体で、少年は美しい青年に育っていきます。

 

味わい深いですね~

 

からの

いきなり首切られてる!!のが、そのヨハネ。

な、なんか、急に老けたよね?

そして唐突すぎる展開にうろたえる私たち(特に私)をあざ笑うかのように、こんなのも描いてる。

 

急!

いや、場面としては、一つ前の絵で首を切られて(ご丁寧に首を乗っけるお皿も準備されてるし)、

この絵で無事(?)お皿に乗ってるので、急ってこともないんですが、あれだけさんざん美しい少年時代、青年時代を描いてきたのになんか最後のほうが急展開っていうか、もはや雑!

だと思いませんか・・??

 

ただ、正確には、これらの絵は年代順に書かれたものではなく、カラヴァッジョのリアル人生において最後に描かれているのはひとつ前、ヨハネの斬首の場面です。

切られた首を先に描いていて、その3年後くらいに、この悲劇的な事件のその瞬間を描いている。しかもその当時のカラヴァッジョは殺人(とその他の余罪)で死刑宣告を受けていて、マルタ島で逃亡中。

しかもその罪を悔いて許しを請うためにローマに帰る途中病死するというその人生の最後の、ほんの少し前のことです。

 

あっカラヴァッジョの人生に足を踏み入れると戻ってこられないからここはサクッと行きますが、罪の意識にさいなまれ、破滅一直線のぼろぼろのカラヴァッジョが、洗礼者ヨハネの最後の瞬間に自分を重ねたのは自明のことかと思われます。

 

だから・・

カラヴァッジョが描いた若き日のヨハネは、みんな美しく、理想的な少年・青年たち。

彼の性的嗜好ももちろん加味されていると思いますが、光り輝くばかりの美しさ。「荒野で襤褸を身にまとって暮らしていたワイルドな(変人)聖人」の面影はなく、みんなもはや豪華といってもいい。

 

そして後半の二枚、いきなり老け込み、理不尽に処刑され、しかもその首を慰み者にされるヨハネには、もはや豪華な輝きはありません。

これは多分、カラヴァッジョ自身の自画像。若く美しくゴージャスだったヨハネは、画家の描きたかったものの変化とともに、まさに劇的な外見的変化を遂げている・・と私は思います。

 

でもすごい運命的じゃないですか?

まだカラヴァッジョが華やかに活躍していて、おそらく人生も(悪徳尽くしだったとはいえ)楽しかったころ、お気に入りの男子たちをモデルにさんざん描いた洗礼者ヨハネ。

その頃は、もちろんヨハネの最期を意識したうえで、でも割と軽い気持ちで、エロ心も丸出しで「サロメに首を取られる数奇な美男子と好みの男子を重ねて」いたことでしょう。

それが人生の最後に、まさか自分の最期と重ね合わせて、同じ洗礼者ヨハネを描くことになるとは。

 

そして首になってしまったヨハネを持つサロメの嫌そうな顔と言ったら。

欲しい欲しいと騒いで、やっと手に入れたヨハネの首なのに、妖女サロメは

いや別にいらねーし

みたいな表情で首から顔を背けちゃっています。

 

自業自得といえばそれまでですが、カラヴァッジョの自虐、そして自分への絶望、逆説的なナルシシズム・・まさに洗礼者ヨハネに取りつかれた人生だったのかもしれないですね・・