わたしのライフワークの一つとして「美女研究」というのがあります。
美女(でありプリンセス)関係の小説を出版させていただいたのも、この研究がベースにあってのことだったのですが、

先日、日伊比較文化論を交えた「美女論」を発表させていただく機会があり、これが非常にご好評をいただいたことに調子づいて、そのときまとめたことを中心に、何回かに分けて「美女論」を書いてみたいと思います。

第一回は「美女の定義」について。

■美女になるために必要なのは容姿ではなく「意思」。

私が研究し、また偏愛するところの「美女」というのは果たしてどういうものなのか。
ということを考えたとき、まず思うのは

持って生まれた容姿は関係ある、けれど、すべてではないし、最重要事項でもない。

ということです。

人間である以上、持って生まれた容姿の優劣というのは、どんなに見て見ぬふりをしても、厳然として存在します。
美しさの基準は文化や時代、気候その他の要因によって大きく変わってきますが、ともあれ「美人・不美人」というものの差はあります。絶対に。

ただ、これは「美女」と「美人」の定義の違いにもなりえると思うのですが、「美人」は、持って生まれた容姿に拠るところがとても大きい。あるいは、持って生まれた容姿が美しい人こそが、「美人」であるとも言える。

ですが、「美女」は。
これは、歴史的にみても美女、ぶっちぎりの代表であるエジプト女王、クレオパトラがそうであったといわれるように、「持って生まれた容姿は、ものすごく美しいというわけではない。が、彼女がカエサルやアレクサンドロスといった英雄たちを虜にしたのはその知性、嗜み、センス、生き方そのものである」。これです。


美人は、美人として生まれる。けれど、美女は、生まれてから「美女になる」のです。

クレオパトラは、エジプトの王家にうまれ、女王になる女性なので、ちょっと現代女性と比べるのには無理があるというご意見もあるかとは思いますが(笑)、ともあれ、美女になるための条件とは、「美女として振る舞う」という、自分の生き方の選択によるところが大きい。
そもそも、美女として生きていきたいかどうか、という、女としての意識的な選択こそ、「美女」の第一条件なのです。

つまり、「わたし、美女やります」と、手を挙げるかどうか。挙げたいかどうか。

そして、世の中には「美女の需要」というものが一定数存在します。
社会というものは、たいていいつでもどこでも「美女」という役割を演じてくれる女性を求めているのです。

ただし、それは、必ずしもいいことばかりの役割ではありません。

ということで、次回は「社会における美女の役割」を。

クレオパトラの選択について詳しくはわたしの著書、「クレオパトラは絶体絶命!」もどうぞよろしくお願いします!