
イタリア生まれの作曲家アントニオ・サリエリが、モーツアルトの毒殺を謀ったという話は事実かどうかわからないという。
でもその疑いを信じた方はいらっしゃるのではありませんか?
リムスキー・コルサコフがわざわざ「モーツアルトとサリエリ」なんていうオペラなんか書いたりするぐらいだから、相当熱いバトルがあったのだろうと思ってしまいます。
そんなサリエリは実はとっても偉い先生だったのだとこのたび再認識することにしました。
弟子にベートーベン、シューベルト、リスト、ツェルニーなどなど・・。
ベートーベンはクリスティアン・ゴストロープ・ネーフェの弟子でありましたが、1782年にはモーツァルトに弟子入りの申込をしています。
このときモーツアルトは26歳ぐらいでサリエリは32歳。
ではいったいベートーベン(このとき12歳)はいつサリエリの弟子であったのでしょうか?
モーツアルトに断られてサリエリのところへ行ったとも思いにくいので、その直前であったか、それとも1792年ウィーンに移住してからか?
その10年後には自殺未遂をおこしているぐらいだから難聴のひどい状態で弟子入りも出来なかったでしょう。
ではいったいベートーベン(このとき12歳)はいつサリエリの弟子であったのでしょうか?
モーツアルトに断られてサリエリのところへ行ったとも思いにくいので、その直前であったか、それとも1792年ウィーンに移住してからか?
その10年後には自殺未遂をおこしているぐらいだから難聴のひどい状態で弟子入りも出来なかったでしょう。
サリエリにいつ習ったかは別途調べるとして、自殺未遂の2年後に交響曲第3番エロイカが完成し、またその2年後の1804年にはピアノ協奏曲第5番「皇帝」が完成しています。
面白いことにこの「皇帝」のウィーンでの初演・ピアノ奏者がツェルニーだったという。
ピアノ学習者がいちどは学ぶ、あの教則本の作者です。
ピアノ学習者がいちどは学ぶ、あの教則本の作者です。
ところで、ベートーベンの真の先生はいったい誰だったか?
良くわからないけれど、あれだけの試練を自分の意思で乗り越えたのだから、
「ベートーベン自身だった」といってもいいよね。