第3節  様々な個性的真理の真髄を学び消化してゆく大海の如き大和心


 その意味において、私達は、多様なる個性ある言論というものを尊重しなければなりませんし、自分自身の言論というものを限りなく探究しながらも、その枠を超えて、すべての方の言論を尊重して、そこから学び、そして、自らの言論をも発展させてゆくような、そうした謙虚な柔軟な態度というものも大切ではないかと思います。


 松下幸之助は、生前それを素直な心ということで述べておられたのではないかと思います。様々な見解があったとしても、それを素直な心で学び、そして、素直な心で自らの血肉としていった時に、すべてのものから学んでゆくことが出来るのであります。


 それがたとえ批判であったとしても、また、一面的な批判であったとしても、見当違いな批判であったとしても、すべてのものを心空しくして受け止め、そして、素直な心でそれを消化し、すべてを血肉化してゆくという柔軟な姿勢というものこそが、本当の意味において、健全な社会を形成してゆくための精神態度ではないかと思います。


 そのような、すべての個性を尊重しながら、全体を押し上げてゆく柔軟な精神態度というものが、新生日本の精神にとって必要であって、それがまた、「大和の心」の源にあるのではないかと思います。


 日本というものは、その中に仏教も入ってまいりましたし、キリスト教も入ってまいりましたし、儒教も入ってまいりましたし、哲学も入ってまいりましたし、科学技術も入ってまいりましたし、様々なものがその中で醸成され、それでいながら日本国の視座というものを見失わなかった所に、この日本の持つ懐の深い精神性、日本精神の真髄というものが見出されるわけであります。


 日本という伝統的なる精神を限りなく尊重しながらも、神代から繋がる所の伝統的な神国としての理念というものを尊重しながらも、同時に、限りなく様々な個性的なる真理を尊び、その真髄を真に学び消化していくだけの器をもった大海の如き心を持つことが大和の心ではないかと思いますし、それこそが、新しきグローバリズムの波の中で、本当の意味において開国をしてゆく道であるかと思います。


 日本的な視座を見失うことなく、その根本理念に立った上で、真にグローバルとなり、様々な個性ある理念を尊重し、学びながら、開国をしてゆくこと、それが、独立自尊の精神を持って開国していった福沢諭吉の精神のように、今の日本に求められている精神態度ではないかと思うのであります。

 

 (つづく)

 

 

 

 

 

 

   by 天川貴之

(JDR総合研究所 代表)