邪馬台国と女王卑弥呼
(その21)
2021.05.09
萩原行政書士事務所
〇航海民の国
――九州の首長たちは、新たに渡来した中国江南の人々から造船や航海の技術を学びました。
お陰で、それまで沿岸部での漁労と交易のみを行っていた日本人が、多少なりとも大きくしっかりした船を作り外洋に乗り出すことができました。
「漢書」地理志は、倭の百余の小国がしばしば半島の楽浪郡に交易に来たことを伝えてもいます。
――志賀島と宗像(いずれも北九州)にいた特に有力な航海民の集団で志賀島を支配した奴国は、1世紀中葉に中国後漢朝に朝貢し、金印を与えられている。
佐賀県吉野ヶ里遺跡にも水軍を保有した有力集団がいた。魏志倭人伝に出てくる弥奴国であろうと思われる。
――吉野ヶ里遺跡の衰退期が、邪馬台国登場の時代にあたる。
邪馬台国は、吉野ヶ里(弥奴国)の有明海沿岸を根拠地とする航海民をまとめて支配し、志賀島などの航海民も指導下に治めて中国との国交を開いた。
――航海民は、「呉越の民」と呼ばれた水上を住み家とするような人々で、その一部は邪馬台国の時代の約半世紀前に、瀬戸内海を東進していた。彼らは宗像と北九州の瀬戸内海側にある宇佐(うさ)とを出発点としてひろまり、その中の最有力集団が卑弥呼と同時代に奈良県纒向遺跡をつくる。そこの首長は間もなく大和政権を開いて水軍を用いた征服活動を始める。
この大和政権を開いた水軍を中心とする征服活動によって邪馬台国は、4世紀初頭に宇佐、宗像の水軍と結んだ大和政権に滅ぼされたと思われます。
ーー余談になりますが、日本という国の地勢は皆さんご存知のように海に囲まれた島国で、陸地は山々が連なり川は上流から下流まで急激に下降していて、その多くは森や林の木々に蔽われ平坦な陸地は少ない国土であると言えるでしょう。
ですから当時は武装した軍隊による戦いと言っても、大陸の騎馬民族のようになだらかな大平原を疾駆して怒涛のような攻撃をすることはできません。
この頃の倭国では、大兵力を移動させるには騎馬によるのではなく、船を利用した水軍を中心とする方が効率も良いということで、戦はもっぱら水軍による侵略となります。
因みに、邪馬台国の時代には、この国に馬はいなかったようですから、騎馬軍団は存在しなかったのでしょう。
今日はここまでです。
ではまたお会いしましょう
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東京都世田谷区等々力所在
萩原行政書士事務所
行政書士 萩原伸一
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