邪馬台国と女王卑弥呼
(その9)
2021.03.23
萩原行政書士事務所
〇古代出雲王国と北九州
――弥生時代に出雲と北九州は、日本海航海路を通じた交流が盛んでした。
これは対馬海流に乗れば北九州から北陸地方に速やかに移動できたからで、瀬戸内海を行くよりはるかに早く日本海沿岸を移動できたことに依ります。
北九州から日本海沿岸を東行すると最初に潟港が集中する地域が出雲で、中継地として栄えていたのです。
――弥生時代中期の紀元前1世紀末に北九州と大陸との交流が急に盛んになり、その20~30年後には出雲にも大陸文化が及んでいます。
つまり、弥生中期前半の1世紀前半には北九州から出雲にかけての地域が先進地となっているのです。
――弥生時代中期に出雲に多くの小国が発生し、2世紀半ばには出雲1国のまとまりが出来上がっている。出雲王国は邪馬台国連合より古い時代に生まれていて、九州の吉野ヶ里遺跡や奴国が反映した時期にその形成の動きを始め、伊都国が玄界灘沿岸をまとめていた時に完成していた。
――昭和59年(1984年)7月、島根県荒神谷(こうじんだに)遺跡で、358本の銅剣が発見された。これは卑弥呼が活躍する時代より約40~50年前に、大量の銅剣を持つ有力な勢力が出雲にあったことを示す。
358本の銅剣は四列に分けて並べられていて、一列目34本、二列目111本、三列目120本、四列目に93本となっている。「出雲国風土記」を見ると、この銅剣数と出雲の神社数とがほぼ一致するという驚くべき共通点があったのだ。
二列目の銅剣数111本は、島根半島3郡(島根、秋鹿:あいが、楯縫:たてぬい)の神社数113に匹敵するし、三列目のそれは、出雲郡の神社数と120と合致している。
四列目は、4郡(神門:かんど、飯石:いいし、仁多:にた、大原:おおはら)の神社数97社に近い。
一列目は出雲国9郡の残り1郡である意宇(おう)郡で神社数は67社であるが、国府が置かれていた同郡は白鳳時代以来多くの神社が作られているので、奈良時代までに34社から67社に増えたと見立ててもおかしくはないと言える。
――古代の文献に、「村ごとに1社あり」という表現がしばしば出てくる。この「村」は自然の集落を表すもので、村は神社を核とする集団であったと見られます。
天皇家は毎年春先に、国司を通じて全国の神社に種もみを下げ渡していた。
このことは、各地の祭祀の場を用いて、支配層が直接村を把握しようと試みたことを物語っている。
――出雲の村の首長は、普段銅剣を荒神谷に納め春秋の祭りの時だけ取り出していたのであろう。このような形で358人もの首長を統轄した出雲の支配者は、極めて強い統制力を持っていたと思われる。
――2世紀中葉から4世紀初頭に至る百数十年間が、出雲の王者の全盛期であった。
この時期、出雲は、日本海文化の中心として独自の文化を築きあげている。
しかし、4世紀中葉に大和政権の支配が出雲に及ぶと、そこの文化の活性は急速に失われていった。
今日はここまでです
ではまたお会いしましょう
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東京都世田谷区在住
萩原行政書士事務所
行政書士 萩原伸一
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