邪馬台国と女王卑弥呼

(その7の1)

 

2021.03.04

萩原行政書士事務所

 

 

 

 

六 天武天皇(大海人皇子)について

 1.天智天皇と天武天皇

645年7月10日、中大兄皇子と中臣(のちに藤原)鎌足は蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅ぼします(乙巳の変→大化の改新へ)。

日本書紀 蘇我氏が天皇しか許されないヤツラの舞を舞ったから滅ぼされた。

     つまり蘇我氏勢力があまりにも強大になったため暗殺された。

 

蘇我氏の大勢力形成を恐れた大和政権と百濟系の勢力が蘇我氏(出雲から新羅系)を滅ぼし、結果的に倭国は百濟に味方して朝鮮半島に派兵するという白村江の戦いに臨むも唐・新羅軍に大敗する。

<7世紀朝鮮半島では高句麗、新羅、百濟の三国が互いに争う状況。中国隋朝では高句麗遠征に何度も失敗している経験から、唐では新羅と同盟を組んで高句麗を征服し、もって半島を支配しようとたくらんでいた。白村江の戦いは、唐と新羅の同盟軍が強敵高句麗をやっつけるための手始めに百済の征服を狙ったもの。倭国は百濟の救援に向かい、半島のごたごたに巻き込まれてしまった。>

 

☆     歴代天皇家の菩提寺 京都「泉湧寺」では、天武系の9人の天皇(天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳)の位牌が除外されている由。

天智天皇の死後、クーデターによって権力を奪取し天武天皇となった大海人皇子の出自の謎や何かが位牌除外の理由なのかどうか、素人には興味の尽きないところです。

 

 

 2.壬申の乱と大海人皇子(天武天皇)

672年天智天皇の死後、6月22日大海人皇子は領地の美濃に使者を派遣し、近江朝と東国の連絡を遮断するためのちの不破の関の封鎖を指示。

2日後に吉野を出発、伊賀から鈴鹿へ、桑名から不破関ヶ原に到着。

6月27日本営を置き、7月23日大友皇子(天智天皇の第1皇子)と対峙、大友皇子の自決により勝利が確定、翌年673年2月大海人皇子は飛鳥浄御原宮を作り、天武天皇として即位。

この乱では出雲系の多くの人々が大海人皇子に味方し、吉野から不破への道中に伊勢神宮へ参拝。近隣の伊賀・熊野・伊勢、その他大和系の豪族の信を得ることに成功した。

大和系豪族は大海人皇子を支持していたわけではなく、不安や疑念を持っていたが伊勢神宮参拝によりこれが解消した。

 

――天武朝と新羅使節との交流状況を見ると、両者間ではいかにも親密な関係にあったかが垣間見える。

――壬申の乱と倭建命

  大海人皇子が兵を募り挙兵した地域は、美濃や尾張を含めてかって倭建命が活躍した地域。大海人皇子は倭建命とその軍団の末裔が多く存在するこの地域の勢力を大きな拠り所として挙兵。人々もまた近江朝廷への不満(663年の白村江の敗戦など)から参戦、味方したものと考えられる。

 

今日はここまでです。

ではまたお会いしましょう