邪馬台国と女王卑弥呼

(その4)

 

2021.02.22

萩原行政書士事務所

 

 

 

二 卑弥呼(ひみこ)・台与(とよ)の時代

〇卑弥呼

邪馬台国の建設:

邪馬台国の支配地域は、北部九州+出雲+北陸+プレ大和政権で、人口は7万余戸。

邪馬台国と対立した狗奴国を除く。

 

出雲の首都機能移転:

出雲は日本海弥生文化圏の中心である。出雲の勢力を軸に近畿地方に拠点を移していく。この事業は後の大和政権でも出雲排除はできなかったほど出雲は大きな勢力を有していた。後々まで出雲と大和の確執が続く「源」がこの時に出来上がった。

 

伊都国の創設:

邪馬台国が外国との交渉窓口として九州に設置した。

卑弥呼女王直轄で中国・朝鮮半島との輸出入管理を任務とした。

当時は鉄の輸入が最重要輸入品目です。未だ青銅器中心の時代でしたから鉄は貴重品。

 

中国との外交関係:

西暦238年(景初2年6月、支配者公孫淵の滅亡は景初2年8月なので、倭国から中国への朝貢はなく、239年6月とするのが一致した学説)

中国に使者派遣、親魏倭王卑弥呼の金印紫綬、銅鏡100枚、拝受。

 

240年 帯方郡より詔書・印綬を奉じて使者が来る。

243年 中国に使者派遣。

245年 倭の難升米に黄幢を賜う

247年 中国に使者派遣、狗奴国の侵攻を報告。中国は撞史長政を派遣。

    その後約40年間、中国への卑弥呼朝貢の記録なし。

    理由は、燕の公孫氏一族が魏の帯方郡を支配していたため卑弥呼は朝貢ができなかった。つまり、中国側の楽浪郡・帯方郡の事情であった。

 

――楽浪郡(BC108~AC313):衛氏朝鮮を滅ぼした漢により平壌卑近に設置された。

189年 遼東の太守、公孫度は朝鮮半島へ進出。後漢の衰退に伴い、自らの支配下に置く。

204年 公孫度の後継者 公孫康は南方の韓・濊族を討ち楽浪郡南半分を併せて帯方郡として設置。

228年 公孫康の子の公孫淵は、公孫恭(公孫康の弟)の地位を奪取。魏の承認を受け、遼東太守に。

237年 魏からの独立を目指し、「燕王」と宣言。楽浪郡、帯方郡は燕に属す。

238年 魏は公孫淵を滅ぼし、楽浪郡・帯方郡を再び統治。

265年 魏の滅亡に伴い、晋が支配。

313年 高句麗により楽浪郡・帯方郡ともに滅亡。

 

 

 

卑弥呼の死:

暗殺説もあるが長寿であったので病気か老衰で亡くなったと考えるのが妥当でしょう。

暗殺説については、他の書籍に詳しく記述されているので、後述したいと思います。

 

〇台与

女王卑弥呼の後継者

台与は13歳で擁立される(247~250年頃)。

卑弥呼のあと男王を立てるも出雲を中心とする古き渡来とプレ大和政権との実質的な権力争いが発生し、結局、台与擁立となった。

このことは、この時期にはいまだ出雲の勢力がプレ大和政権より勝っていたという証左でもあると考えられる。

 

266年 倭の女王(台与?)朝貢す。

魏の滅亡(265年)により新たに成立した晋への台与の挨拶と考えられる。

これ以降413年から始まる「倭の五王」による朝貢まで約150年弱、倭国の状況を示す資料が皆無となっている。

 

台与の後継者は、天照大神のお付きの神様にあたる豊受大御神で天照大神の食事等の世話をする女中的な役割・立場であった。

プレ大和政権の下では軍事を含む実質的な権力を持たず政治的には傀儡となっている。

出雲を凌ぎ鉄と文化的優位を有したプレ大和政権が、少しずつ実権を握る流れと自然になってきていた。

 

今日はここまでです

次回をお楽しみに!

ではまたお会いしましょう

 

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東京都世田谷区在住

萩原行政書士事務所

行政書士 萩原伸一

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ホームページ https://www.visahagiwara.com

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