明治維新(14)
<Ⅷ. 明治維新の歴史も勝者の物語!>
明治維新の歴史は勝者となった薩摩と長州を中心として書き記されているようで、薩長史観とも言われます。
今、なぜか反薩長史観の本が人気を呼んでいますが、その中から新潟県方面で起こった北越戊辰戦争について触れてみます。
なぜこのような話をするかというと、北越戊辰戦争は明治新政府が触れたくない(隠したい)事件だからです。
何故隠したいのか、それは、
家老の河井継之助が率いる長岡藩を中心に奥羽越列藩同盟軍は、3か月にもわたって新政府軍を苦しめた事実で、
後に明治政府の重鎮となった山縣有朋らにとって不名誉な出来事であって決して誇るべき勝利ではなかったからと言えるでしょう。
前後7回の激戦において新政府軍が勝ったのは1回だけと言われていますし、新政府軍が敗れたある戦いでは、西園寺公望は馬の背を逆に乗って遁走したり、山縣有朋は裸で逃げたと伝えられています。
また、慶応4(1868)年5月2日の長岡藩と新政府軍との会談は、両者が決裂する象徴的なものとなりました。
これは、長岡藩家老の河井と新政府軍軍艦の岩村清一郎との会見で、
土佐藩の岩村は後に長州人から「軽率で無思慮」とまで言われ、腰の軽い血気盛んな人物のようでした。
弱冠24歳の岩村は総督の西園寺公望、長州の山縣有朋、薩摩の黒田清隆らに従って越後に進撃していて、先頭部隊の現場責任者であったようです。
この岩村が傲岸不遜で新政府軍の司令官(?)として会見に臨んでしまったために、まとまりそうな話も壊れてしまいました。
結果、長岡藩は会津と手を結ぶことを決意して会見決裂の翌々日には、奥羽越列藩同盟に参加し、河井の指揮のもと熾烈な激戦が始まります。
この時の新政府軍の総兵力は3万、奥羽越列藩同盟軍の総兵力は8千人、そのうち長岡藩はたったの1,500人でした。
また、長岡藩の表高は7万4000石の小藩であったのに対し、薩摩藩72万石、長州藩37万石の大藩で、かような状況下で戦が始まったことになります。
こうして新政府軍側にとっても無益ともいえる戦が始まってしまったのであって、この会談がうまくまとまればこのような結果にはならなかったでしょう。
この点について、当時新潟方面の最高責任者として現場近くにいた長州の山縣有朋や薩摩の黒田清隆は、後に「岩村に代わって会見していれば(河井の器量がわかったはずで)円満に解決していただろう」という趣旨のことを語ったようです。
このような経過をたどった北越戊辰戦争については、明治維新後あまり語られることはありませんでした。
というのも勝者の明治新政府にとっては誇るべき勝利とは言い難く、この戦に直接参加していた長州の重鎮である山縣有朋から見ればプライドに傷がつく不名誉な結果であったからでしょう。
では、どうして北越戊辰戦争が世の中に知られるようになったのか。
一つ考えられるのは、作家の司馬遼太郎が河井継之助にスポットを当てた小説「峠」を書いたことにより、これが世の中に広く知られる結果となったということです。
かくして勝者の歴史も年月を経て、隠したい不都合な事情も含めて事実として表面に現れてきます。
今回はここまでです。
2020.12.01
萩原行政書士事務所

