明治維新(13)

 

 

(4)馬関戦争と奇兵隊創設

 

文久3年(1863年)5月10日、幕府の攘夷実行期限が来ると、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行うが、逆に米仏の反撃にあい惨敗する(下関事件)。

 

同年6月、奇兵隊を結成。3か月後の9月には教法寺事件(藩立の武士中心に編成されている報国隊と新参者の農民を中心に編成された晋作の奇兵隊に係わるトラブル)の責任を問われ奇兵隊の総監を罷免される。

 

同年、京都では薩摩藩と会津藩の公武合体派によるクーデター(8月18日の政変)で、尊王攘夷派の長州藩は京都から追放される。

 

1864年1月、晋作は脱藩して京都に潜伏する。2月、桂小五郎の説得で帰郷するも脱藩の罪で投獄され、6月には出所して謹慎処分となる。

 

同年7月、長州藩は、禁門の変(蛤御門の変)で敗北を喫し朝敵となる。この時久坂玄瑞は自害。

 

1864年8月、馬関戦争。英・仏・蘭・米による四か国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されると、晋作は赦免されて和議交渉を任される。晋作24歳。

 

この交渉において晋作はほぼすべての提示条件を受け入れたが、外国船砲撃は幕府の命に従ったまでであると主張し賠償金は幕府が支払うこととなったほか、「彦島の租借」要求については頑として受け入れようとせず、結局要求を取り下げさせることに成功した。

 

これは清国での見聞を経験した晋作が「領土の期限付き租借」の意味するところは植民地化であると見抜いていたからであることは容易に想像がつく。

 

 

 

 

(5)第1次長州征伐と高杉晋作による功山寺の挙兵

 

1864年、幕府は、長州藩による京都での禁門の変(7月)や攘夷決行に伴う馬関戦争(8月)を踏まえて、長州藩を懲らしめるために11月に第1次長州征伐を行う。

 

一方、長州藩では、当初、幕府への恭順やむなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した。俗論派とは幾分奇異に感じる呼称だが、歴史の勝者は正義派と称されるいわゆる攘夷派であったことは忘れてはならないでしょう。)が台頭し、10月に晋作は福岡へ逃れるも、正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還。

 

12月15日夜、無謀にもたった一人で行動開始。

何故12月15日か検証するも、特に大義名分はなく、あえて言えば赤穂浪士の討ち入りの日であったことだろうか。晋作の行動は無謀にもほどがあり、余りにも行き当たりばったり的な行動であった。

 

歴史の勝者としてみれば、時宜を見極めた瞬時の天才的な判断だったと言えるのかも知れないが・・・

 

なにはともかく、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊らを率いて功山寺で挙兵、後に奇兵隊も加わり、1865年3月には俗論派を排斥して藩の実権を握る。

 

同月、晋作は長崎でイギリス商人グラバーと接触するが、反対される。

 

4月には下関開港を推し進め、攘夷・俗論両派に命を狙われ四国に逃れ、6月、桂小五郎の斡旋により帰郷。

 

1865年、晋作は高杉家を廃嫡され、藩命により谷潜蔵と改名する。

 

(6)第2次長州征伐(四境戦争)

 

1866年1月、晋作が桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔らと共に進めていた薩長同盟が土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介によって締結される。

 

同年5月、薩摩行の途次、長崎で蒸気船「丙寅丸」を購入。

(この蒸気船購入資金は誰が出したのか?長崎で購入しているが、一体だれが保証して船の入手を可能にしたのか?船を売った側は何を目論んでいたのであろうか?)

 

6月、幕府による第2次長州征伐(四境戦争)では、晋作は海軍総督として「丙寅丸」に乗船し戦闘指揮をとった。この時、薩摩藩は薩長同盟の盟約もあり、長州征伐への出兵は拒否している。

 

晋作の長州軍は周防大島沖で幕府艦隊を夜襲、周防大島を奪還している。

 

小倉方面では艦砲射撃の援護の下、奇兵隊・報国隊を門司・田ノ浦に上陸させ幕府軍を敗走させている。

 

その後小倉城近くまで進撃したが、肥後藩細川家の近代兵器による装備をした軍勢に撃退され戦況は停滞した。

 

7月20日、将軍徳川家茂が死去したことにより、同月30日には肥後藩・久留米藩・柳川藩・唐津藩・中津藩が撤兵、幕府軍総督小笠原長行は海路で小倉から離脱、残された小倉藩は翌日城に火を放ち逃走して幕府軍の敗北が決定的となった。

 

これにより幕府の権威は失墜し翌慶応3年(1867年)11月の大政奉還へと時代は大きく激動する。

 

晋作は肺結核で療養中であったが、1867年5月17日に、まるで大仕事をやり遂げた如くにこの世を去る。

 

今回はここまでです。

 

2020.11.10

萩原行政書士事務所