明治維新(10)

 

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<Ⅶ. 薩摩・長州、薩英戦争(1863年7月)・馬関戦争(1864年8月)を経験して攘夷から(討幕)開国へ>

 

1.薩摩藩とイギリス

(1)初代駐日イギリス総領事ラザフォード・オールコック来日

1859年6月、日本との条約批准のためオールコック、長崎に来日。同月、品川沖に到着。

同年7月、江戸城に登城、日英修好通商条約の批准書交換。

同年特命全権公使となる。

オールコックは幕府を威圧し、威嚇外交を展開。

イギリス側の決め台詞は「大英帝国の艦隊で攻撃するぞ」と恫喝。

大英帝国は、当時世界一の軍事力を持っていた。

イギリス側の日本に知られたくない最大の弱点は、中国・インドにおける紛争激化のため、大英帝国艦隊は日本におらず中国方面にいるが、日本に来る見通しは当面なかったため、オールコックは虚勢を張り続けるだけだった。

1861年7月、日本側の過激派武士による英国公使館襲撃事件発生。

 

(2)生麦事件

1862年8月、江戸から京都へ向かう生麦において薩摩藩の島津久光一行の大名行列を通行妨害したとして英国人4人が殺傷される。

イギリスは、この件で幕府に10万ポンド、薩摩藩に2.5万ポンド(現在の価値で3億円)の巨額の賠償金を要求。

幕府は賠償金を支払うも

薩摩藩は「そもそも生麦の1件は、武門のしきたりに従ったまでの事」として譲らず、この支払いを拒否。

この時期、大英帝国艦隊は第2次アヘン戦争(アロー号事件)は終結したものの、太平天国の乱等の対処のため動けず。

英艦隊は、生麦事件から半年後にゆとりができ日本にやってくることができた。

 

 

 

(3)薩英戦争

1863年7月、英国はオールコックが休暇帰国により不在のため、ニール代理公使が中心となる。

英側は薩摩藩に軍艦を派遣し、賠償金の支払いを強要し直談判するための砲艦外交を展開こととした。

この際のやり取りで、英側書簡の「生麦の諸人中の長立ちを女王陛下の前で首をはぬべし」とした要求が、翻訳の問題から薩摩藩では「藩主島津久光の首を差し出せ」という要求であると誤解、薩摩藩の武士はみな大いに激高して一般の民を含めて徹底抗戦の声一色になった。

 

8月11日、ニール率いる英国艦隊7隻(旗艦ユーリアラス号)が鹿児島湾に到着。

英側は本気で戦争をすることは考えておらず、脅かし・威嚇するだけで十分であろうと考えていた節がある。

Show the Flag で、 ユニオンジャックの国旗を掲げることができれば、これまで相手国は屈服してきており、この時も同様に考えていたきらいがある。

その上、英本国は日本との戦争突入は避けたいと思っていて、その旨の訓令を発している。

 

ニールの乗艦した旗艦ユーリアラス号は、幕府から受け取った賠償金10万ポンドを船内に保管し鼻高々で鹿児島湾に入ったのでしょう。

さあ今度は薩摩藩から賠償金を巻き上げるぞとばかりに。

 

英艦隊は鹿児島湾に到着すると、湾内の奥深くに投錨しました。

この投錨場所は、なんと薩摩藩の砲台から見て、その射程距離の範囲内に錨をおろしてしまったのです。

英艦隊の持つアームストロング砲の射程距離は、薩摩藩の大砲の4倍も遠くに飛ぶ飛距離があったのですから、慎重であれば薩摩藩の砲弾の届かない着弾距離の外に艦隊を停泊させているはずです。

明らかに英艦隊には、敵は攻撃してこないだろうという、油断・慢心・おごりがあったといえます。

はじめの攻撃は薩摩藩の砲台からです。

英側もこれに応戦して、城下町は火の海になりましたが、

幸か不幸か、ニールの乗った旗艦に着弾して艦長と副長が戦死してしまい、撤退を余儀なくされます。

 

今回はここまでです。

 

2020.10.05

萩原行政書士事務所