明治維新(8)
(2)フランス
フランスはこれまでに北アフリカ、サハラ砂漠を挟む西アフリカ一帯(セネガル・象牙海岸ほか)及びマダガスカルを確保。
〇アフリカ横断政策
西アフリカのセネガルから東のマダガスカル島まで、アフリカを横断して鉄道でつなぎ
その地域一帯を支配しようとしていた。
フランスのアフリカ横断政策は、イギリスの3C政策とスーダンのファショダで衝突、フランスが譲歩し、アフリカ横断支配はならなかった。
〇ファショダ事件
1898年、アフリカのスーダンで起こったイギリスとフランスの帝国主義国家間の衝突。
アフリカ縦断政策をとるイギリスと、アフリカ横断政策をとるフランスが、スーダンで起こした衝突事件。
フランスは当時ドレフュス事件で国内の統一が取れていない状況でもあったため、イギリスとの戦を諦めファショダをイギリスに明け渡した。この事件を最後に英仏は対立を終わらせ、協調が成立する。
(3)ドイツ
3B政策
(ベルリン~ビザンティン~バグダットのBで始まる三つの都市をつなぐ東欧から中東地域にかけての植民地化戦略)
欧州列強の植民地化競争では、後発組のドイツ。
歴史は既にポルトガル・スペインによる征服の時代からイギリス・フランスによる征服の時代に移行していて、世界は既に英・仏の両国によってそのほとんどが植民地化されてしまっています。
後発組のドイツにとっては侵略すべき国・地域が限られている状況です。
ドイツの3B政策は、当初ベルリンからバグダットを経てインドのボンベイ(現在のムンバイ)まで視野に入れていましたが、中東でイギリスの3C政策やフランスの植民地政策と衝突してしまいます。
結局これらの覇権主義国家同士の勢力争いは、政治・軍事・外交力で優位に立ったイギリスが勝ち組となります。
(4)ロシア
ロシアは、クリミヤ戦争(1853~56年)の敗北でバルカン、黒海方面での南下政策を一時棚上げせざるをえなくなった代わりに、1860年代には中央アジア方面と東アジア進出に向かった。
1870年代になってからは再び南下姿勢を強め、1877年には露土戦争に突入する。
19世紀中ごろ中国では太平天国の乱が続いていて、インドでは1857年シパーヒーの大反乱(セポイの反乱)がおこっている。
1855年、ロシアのニコライ1世はアメリカに対抗してプチャーチンを日本に派遣し開国を迫り、日露和親条約を締結している。
ロシアは1861年に起こったアメリカの南北戦争により欧州方面への警戒の必要もあり日本から後退することとなる。
(5)アメリカ
1853年ペリーの黒船来航
アメリカの日本へのペリー派遣・開国要求は、英仏がクリミヤ戦争の最中であったことも背景となっている。
1856年アメリカの下田総領事としてタウンゼント・ハリス着任。
ハリスは条約調印交渉に臨み、1857年日米修好通商航海条約締結。
同年アメリカの初代駐日公使に任命される。
この間、ハリスは中国におけるアロー号事件の情報を得て、幕府に対し、「イギリスが日本を侵略しようとしている」と伝える。
1861~1865年 南北戦争
アメリカは、この内戦によって海外進出どころではなくなってしまった。
今回はここまでです。
2020.09.04
萩原行政書士事務所


