↑ベトナム戦争当時に2,000機目の北爆米機の撃墜を記念して発行された切手(ベトナムの声放送局ー国際放送ホームページ「切手に見るベトナムの姿」より)。小さな女性民兵が大柄な米軍パイロットの捕虜を連行する有名な写真がモチーフ。戦後2人は再会しています。
Wikipediaも疑ってかかる必要
ウクライナで戦争が起こり、飛び交う情報の中には、1日で6機のロシア機を撃墜したというゴースト・オブ・キエフなるエースパイロットの噂が流れました。ことの真偽は別にして、彼が撃墜したとする軍用機の映像が拡散されたものの、もともとゲームソフトで作成したとの断り書きのあったフェイク画像とわかり、まもなく映像に利用されたゲームの開発元が「誤解を招く映像制作は控えて」と訴えを出すにいたりました(注1)。
こうしたこともあり、前回のブログでは、誤解を与えるような画像や映像を自分でも作ってしまわないようにするにはどうしたらよいか、考えたものでした。多分に虫の良すぎる主張だったような…。
それにしても、ウクライナに侵攻したロシアのプーチンといい、ベトナム戦争やイラク戦争時の米国といい、戦争を仕掛ける側がやることは似ています。「ウクライナ軍が民族虐殺をおこなっている」、「公海上で北ベトナムから攻撃を受けた」、「イラクは大量破壊兵器を保有している」などとウソの口実をでっち上げる。そういえば、自作自演の柳条湖事件を口実に中国東北部を軍事占領した国がその昔ありました。
ウクライナ情勢を見守っていると、ベトナム戦争を思い浮かべてしまい、そこから、つい思うのはWikipediaのベトナム戦争に関する記述が正しいのかという疑問です。この間2回ほどWikipediaの記述の正確さを問題にしてきたこともあり、今回はベトナム戦争当時に和平交渉に引きずり出されたのはいったいどちら側だったのか、を考えさせてもらいたいと思います。
ウクライナを引き合いにだして申し訳ないですが、停戦交渉に引きずりだされたのはどちらでしょうか。軍事力で優勢なロシア軍の攻撃を受けて市民の犠牲が増える一方のウクライナ側でしょうか。交渉を受け入れれば一定ロシア側の条件を飲まなければならなくなるのは知っての上でしょうから。それとも、ウクライナ側の思わぬ頑強な抵抗にあい多大な損害を被り戦局をまともにコントロールできずにいるロシア側でしょうか。
攻める側は、圧倒的な軍事力にものを言わせ、また手こずる場合は和平交渉を利用して相手を屈服させようとします。攻められた側は、相手の軍事力の行使に少しでも縛りをかけようと和平交渉を利用し、ぬらりくらり屈服をかわそうとすることでしょう。攻める側にすれば、なんて卑怯で和平の引き伸ばしにより自国民の犠牲が増えるのをかえりみないひどい国だと思うことでしょう。攻められた側はあんたに言われたくない心境でしょう。話し合いに積極的と引きずり出されたとでは真逆ですが、解釈次第でどうとでもとれそうでもあります。
ベトナム戦争では、Wikipediaによると、米国側が激しい北爆を実施したことで、和平交渉のテーブルに北ベトナム・解放勢力側を引きずり出し、戦争の「ベトナム化」、米軍撤退に道筋をつけることができた、というような主旨の説明でした。腑に落ちないのが、そこです。
ロシア軍と戦うウクライナ軍同様に当時の北ベトナム・解放勢力側も民族独立のため士気高く戦い、米軍を苦しめていました。しかし、物量にまさる大国の米国の軍事力の前には、北ベトナム・解放勢力側が圧倒的に不利なのは自明なこと。しかも当時はゼレンスキーのように世界の人々に直接語りかけるSNSのような手段はなく、和平会談は北ベトナム・解放勢力側にとって米軍、南ベトナム軍側の「悪逆非道」を暴き、宣伝するための数少ない恰好の場でもあったはず。戦場カメラマンの活躍もありましたが、解放勢力側の代表団のグエン・チ・ビン女史らが、国際的な反戦世論の高まりに影響を及ぼし、アメリカ側を追い込んだことに間違いはないでしょう。すなわち、パリ和平会談に積極的だったのは、軍事力での不利を政治・外交によりカバーする必要のあった解放勢力側とも考えられます。
それ以上に示唆的なのは、1973年のパリ協定の結果、米軍は撤退し、2年足らずのうちにベトナム戦争は北ベトナム・解放勢力側の勝利、南ベトナムの消滅で終わったこと。そんなことのためにアメリカは北ベトナム・解放勢力側を和平のテーブルに引き出そうとしたとは通常なら考えにくいことです。
それでも、停滞していた和平交渉は北爆の再開で協定締結にいたり、アメリカは米中接近で中国を取り込み、戦争の「ベトナム化」も順調にすすめていたと反論されるかもしれません。
今一度振り返って経過をみてみましょう。ことの発端は、ディエンビエンフーのフランス軍がベトナムに降伏し第1次インドシナ戦争が終了を迎えたときの、インドシナ和平会談です。これに反対のアメリカが、南部にゴ・ディン・ジェム政権を樹立し、1954年7月のジュネーブ休戦協定の調印に参加しなかったことは記憶にとどめておいて良いことでしょう。結果、ベトナムは軍事境界線を挟んで南北に分断され、ジュネーブ協定で1956年までに実施されることになっていた南北統一の自由選挙も実施されず、後のベトナム戦争の原因となります。
ゴ・ディン・ジェムによる反対派や仏教徒への弾圧は激しく、南部では武力闘争もやむなしの声が強まり、ベトナム労働党も武力解放を決意、1960年12月には南ベトナム解放民族戦線が結成されます。解放勢力の拡大は著しく、アメリカは1965年北爆を開始、また地上軍を派遣し直接介入をエスカレーションさせていきます。ベトナム式の人民戦争にアメリカの戦略はことごとく破綻、アメリカにとって戦争の泥沼化が深刻になるまで、和平への直接的な動きが現実的になることはなかったようです。
転機は、1968年1月の解放勢力側による有名なテト攻勢。10月にはジョンソン大統領が北爆が全面停止(注2)し、11月にはパリ和平会談の開始に至ります。テト攻勢は軍事的には失敗であり南部の解放勢力は大きな損害を出し、その後解放区の多くを失うことになったようです。また、すでにソ連寄りになってはいた北ベトナムですが、米中接近で中国を頼りにできなくなったのも真実でしょう。
しかし、ホーチミンルートによる補給の遮断を目的とした米・南ベトナム軍のカンボジアやラオスへの侵攻は成果をあげられず、さらに、1972年4月に北ベトナム軍が17度線を越え失地回復をめざす解放勢力側の攻勢が全土に広がると、ニクソン大統領は北爆再開を決定し、5月から10月にかけてラインバッカー作戦を実施、12月にはさらにラインバッカー作戦IIで誘導爆弾などハイテク兵器を使った猛烈な北爆を行います。
そして、1970年よりキッシンジャーとレ・ドク・卜政治局員との間ですすめられてきた秘密交渉の進展(注3)で、1973年1月、パリ和平協定が結ばれることになったのです。
興味深いのはその内容です。米軍が撤退しても北ベトナム軍の撤退は求められず、南部問題の政治的解決は米軍撤退後に繰り延べするもの。これで南ベトナム側の敗北はないと、誰が思えたでしょう。悪いのは協定を反故にした北と解放勢力だなんて、子供じみた言い訳をはさすがにできまないでしょう。
しかも決定的なことに、最新兵器を投入した徹底的な北爆により北ベトナムは崩壊寸前、補給の途絶えた南部ではまともに戦えなくなっていたというのですから、それが真実ならあと少し戦いを継続すれば完全勝利が得られたはず。何もわざわざ和平協定を結び敗北の道を選ぶ必要はなかったのでは、と疑問をいだくのは当然ではないでしょうか。
「平和会談に北ベトナム・解放勢力側を引きずり出した」というのは、要はアメリカの強がりであって、アフガン同様に撤退したくてならないアメリカの体裁繕いにしか思えません。北ベトナム・解放勢力側にすれば、名より実を取れればそれで良く、目くじら立てることではなかったのでしょう。ウクライナ問題でもプーチンに逃げ道を与える必要のある時が来るのかもしれませね。
それにしても、門外漢ですら疑わしく思う立場をWikipediaがとり、そうした疑わしい議論が幅をきかせていることに、不安を覚えます。フェイクを見破ることが求められる今日、他人の意見を無批判的に受け入れていやしないかと心配になります。なにせ少し考えるだけで変だと思えることが、まことしやかに通用しているとすれば、恐ろしいことです。
注1)ゲームの開発元は「Eagle Dynamics」、使用されたゲームは「Digital Combat Simulator World」。もともとゲームを使って作成したものであるとの断り書きはあったものの、本物のように扱われ拡散されたわけで、画像や映像を扱う際は余程気をつけるべきと言えます。
注2)アメリカは北爆により北ベトナムを和平交渉のテーブルにつかせようとしていたようですが、ジョンソン大統領の北爆停止までは聖域を設けた不徹底な爆撃でもあり、また工業がそれほど発展していたわけでない北ベトナムへの爆撃はあまり効果がなかったとも言われます。マクナマラ国防長官も効果を否定的にみるようになり和平を主張し、ジョンソン大統領と対立しました。
注3)1972年4月の北ベトナムの「攻勢は米国の主張を呑んで和平交渉を進展させる、つまり戦略の転換に備えてのもの」とする見解もあり、
アメリカの一方的な撤兵がすすみ、北ベトナム軍の撤退を求めなくなったこと、中ソとも米国への接近をはかり北ベトナムへの援助を削減しており、ベトナム問題では軍事問題の解決をのぞんでいたことから、北ベトナムもグエン・バン・チューの即時退陣要求を取り下げ、軍事問題先行、すなわち和平へ方針を転換。10月22日に、秘密交渉で米国と和平を合意します。
5月から始まったラインバッカー作戦も翌日に終了しますが、和平交渉の進展は北爆の結果とは一概に言えないのは読んでの通り。
和平をほぼほぼ実現したとした大統領として11月7日の大統領選挙で勝利したニクソンは、12月18日より再び北爆を行います。猛烈を極めたラインバッカー作戦IIですが、北ベトナムの戦闘能力を破壊し、チュー政権の存続を確実ならしめるためであるとともに、「和平協定の受入れは死を意味する」と訴える南ベトナム政府側にアメリカの助けを保証してみせる意味合いも持っていたとみなされます。より有利な合意をめざしたものとする意見もあるようですが、秘密交渉での合意直後のことであり、しかも空爆はまもなく終了しているので考えにくく、前者の方が妥当と思います。
【参考】
ベトナム戦争ーバッタが象に勝った戦争 石山 昭男 http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/W/betonam/beto0.htm#0
パリ協定は何を意味するか 木村 哲三郎
北ベトナムの南部統一作戦について 木村 哲三郎
外交青書 外務省
ベトナム戦争の教訓 原題「ベトナム戦争(その2)
ベトナム戦争 福田 茂夫
弁護士会の読書 果てしなき論争 https://www.fben.jp/bookcolumn/2003/10/post_112.php