人事からは
「今迄に事例が無い為検討させて下さい」
との返答。
その後、間もなくして
特例として許可が下りた。
総計数267箱の段ボール、その他大型家具、
柱時計、エラールグランドピアノ、ティファニーランプ他
家族の30年駐在生活の全てが
日本へ大移動の運びとなった。
30年の駐在生活では、
駐在地が正に『自宅』となっており、
そう遠くない将来に
本帰国を決意しなければと
夫婦で模索し始めていた為、
実行できる機会を与えてくださった
本社人事のご尽力に
敬意と心から感謝の念に堪えなかった。
精神的にボロボロで
苦しみに押しつぶされそうな日々ではあったが、
夫と二人、
『手探り』で幸せの糸口を探し求め、
この決断は我が家の大きな前進の一歩であり、
万感胸に迫る思いであった。
継続させていただいている有給休暇中、
夫へは、数々のメールが送信されていた。
然し休暇中ということで
既読にすることは無かった。
夫からの返信が無い為、
現駐在支社長の方から電話が着信された。
有給休暇を継続し続ける理由が全く理解できず、
夫の現状況を把握されたいとの由、
支社幹部4名が同席されて
夫との電話会談が開かれた。
『前田』については一切触れず、
飽くまでも移転準備の為
有給休暇継続の由を説明した。
今迄、仕事一筋で休暇すら取ることが無かった夫が
突然出社しなくなった、
『真実の理由』が他にあると
皆様方が確信されていらっしゃると推測した。
ただ己自身の『保身』に走る前田は、
夫の名前を気怠く連呼し、
早朝、午前中のメール連投、
ご相談、チャット、午後のメール連投、
更に勤務時間外のメール、
家庭の時間を承知の上で
夜間の夫との1対1のリモート会話の依頼、
夜間、深夜のメールを
1年4ヵ月もの間継続してきたにも拘わらず、
既婚上司への恥ずべき色仕掛けの試みが頓挫し
手中に収めたはずの上司が突然消え
社会人として非常識な逸脱行為を重ねたことへの
自らの責任を回避するかの如く
自身に原因の追究が迫ることを恐れ慄いている。
「私は上司の突然の休暇とは無関係だ」
と、何事も無かったように
1年4ヵ月もの間継続した前田からの夫への
全ての理解しがたい常軌を逸した蛮行、背徳行為が
ピタリと停止した。
支社、妻からの追究を逃れるためにたじろぎ、
身震いしながら
逃げ回っているのだ。
純粋さの欠片もない、
正に専門家が紹介されていた
40歳の『行けず後家』の独身女性部下、
世の中にはご事情があり
独身を貫いている方もいらっしゃるが、
然し前田は
狙い定めた条件の良い既婚男性上司ばかりを追い廻し
上司の家庭を崩壊させることなど
全く意に介さない冷酷な
前田の恐ろしい『毒血』の証である。
「40歳の既婚上司ばかりを狙う女よ、
生娘ではないのよ」
と、私の言葉の意味が
夫は骨の髄まで染み渡るように、
痛感し、現実を直視していた。
私は
「前田との夜間の1対1のリモート会話は
貴方からも今晩話そうと
前田へ打診したことがあるの?」
と尋ねた。
夫は
「いや、一度もない!!
信じてくれ、
全て前田から依頼してきた」
火を見るよりも明らかだと思った。
何故ならば、前田は想定通り、
妻の私が気付き、
夫の対応が急変した状況下、
前田自身の『保身』に走ったからだ。
「汚い」
こんなはしたない、ふしだらな女がいるんだと、
衷心よりそう思った。
色彩のない絶望的な世界で
金縛りにかかったように
恐怖を感じ、
背筋に戦慄が走った。
前田の存在を初めて知ったのが6月初旬、
壮絶なフラッシュバックに苦しみながら、
大小総計267箱の段ボール箱、家具等全ての梱包が
凡そ1か月掛かり完了した。
夫と共に精根尽きる共同作業であった。
引っ越し業者の皆様のお力添えで
航空便・船便共に輸送の手配が滞りなく準備完了した。
責任者の方が
「25年この仕事をして
今迄で一番の量となりました」
と話された。
航空便到着に合わせ、
夫と二人日本へのフライト予約をした。
私にとっては、恐らく夫にとっても、
全てが夫婦ともに手を取り合って駆け抜けた
30年に及ぶ駐在生活の「宝物」であった。
本帰国ではないが
一時的であっても、
あの忌まわしい独身女性部下「前田」のいる駐在地から、
直属の上司ではない、
支社最高顧問の既婚上司の家庭の領域に
1年4ヵ月もの間、
仕事を盾に入り込み続けた
己の強い我執を抑制不可能な女奴婢(じょぬひ)にも劣る前田から
距離を取れることに
言葉に余る程の精神的な安定、
心の静寂と安堵感に包まれた。
傍に寄り添い、
限りなく傷心の妻を労り続ける夫の
愁眉を開くように優しい笑顔に癒された。
探し求めた移転先のレジデンスは
理想の空間へはたどり着けず、
50階建ての4棟ある現在のレジデンスの
別当の部屋を選択した。
ヨーロピアンスタイルの洗練された部屋だ。
脳裏には再び此処での生活を継続する未来図は
描くことは困難であった。
フライト当日、空港でドライバーに
暫くの間、日本へ一時帰国すると夫が説明した。
やっとこの日を迎えられた。
夫の私が全く知らない1年4ヵ月もの時間を唐突に知り、
計り知れないほどの衝撃と、
30年の夫婦として築いてきた努力への無念さ、
路頭に彷徨う孤立無援の精神的打撃、
今までの人生で、
これ程までに自尊心を踏みにじられた
精神的拷問を浴びたことは無かった。
心の傷は抉られたままであるが、
その深い傷を負った駐在地から
夫と共に離れられることに
私の心は喜びに満ち溢れていた。
フライト便のチェックインカウンターは
私達の到着が早すぎたため
オープン開始前であった。
まだ暫く時間がある為
夫に飲み物をお願いした。
5分、10分、15分が過ぎた。
チェックインカウンターのフロア一帯に
秒針が鳴り響くように
時の経過が残酷に遅く感じる
恐怖に支配され、
一刻千秋の思いで夫を待った。
何らかの形で夫と前田は接触が継続しており、
エアポートの何処かで再開しているのではないか、
不安に怯え、
ただ夫の帰りを待ち続けた。
20分後、笑顔で夫が戻った。
指先が小刻みに震え、
安堵と不安が混同し涙が頬を伝った。
私の世界では考えられない
私の今迄お出会いした方々、お友達、
誰も断じてやらない、
前田の人間としての脱落行為。
前田が1年4ヵ月もの間、
既婚上司と知りながら、
家庭の領域に入り続けた
卑劣で非道極まりない行為、
夫へ仕事を盾に近づき
利用し続けた言語道断な振る舞い、
其れを仕事と判断して
対応し続けた夫、
それら全てが一瞬にして
フラッシュバックとなって
残酷に蘇り、
此処まで
私を孤独恐怖に陥らせてしまうのだ。
壊れかけて折れてしまった私の心を
純粋に愛情で一心に繋ごうとする夫。
前田に対し、
仕事と割り切りながらも
前田の1年4ヵ月に渡る雁字搦めの束縛に
勤務時間外、夜間であっても
仕事と割り切って
対応し続けてしまった夫自身の
家庭人としての軽率さに
夫なりに
深く慚愧と自責の念に駆られている。
今はただ二人で日本へ帰れることが
何よりも嬉しく、
それ以上望むものは何もなかった。
漸くチェックインが完了した。
イミグレーションを通過し
夫が私の肩を抱き寄せ
二人寄り添ってボーディングゲートへ向かった。
紛れもなく今の二人が
本来の夫と私、
『青山元不動白雲自去来』
『逆境これまた風流なり』
私は何処まで耐えられるだろうか、
何処まで平常心を保てるだろうか。
ボーディングを済ませ
間もなくして
機体がゆっくりと向きを変え
『幸せ』へと続く
長くまっすぐに伸びた滑走路へ向かう
軈てジェットエンジンの轟音が鳴り響き
最速力で滑走し離陸!
機体がフワッと大空へ舞い上がる。
フライトで私の最も好きな瞬間である。
何度この瞬間を経験しただろうか。
唐突に心に浴びた
計り知れない衝撃と、
駐在地の自宅レジデンスで
泣いて耐えしのいだ辛い時間が
走馬灯のように脈絡なく
私の脳裏に思い浮かぶ。
静かに伝う涙を
横に座る夫が手で拭った。
そして
私の手をぎゅうっと握った。
どんなに傷ついても素直で在りたいと思う。



