文学は出版されてなんぼの世界だが、
音楽では初演がいつ、どこで、誰によって、が問題になる。
楽譜の出版はそのおまけのような扱いである。
しかし、CDも配信もない19世紀に、
演奏を聴く機会がない人にとって、
楽譜は未知の音楽を知る唯一のツールだった。
ベルリオーズ同様、
シューマンもさかんに音楽評論を書いていた。
その一部は岩波文庫のシューマン『音楽と音楽家』で読むことができる*。
第二部 一八三五年―一八三六年の2が
「ベルリオーズの交響曲」となっていて、
これは『幻想交響曲』のことである。
(いつ発表された文章か書かれていないのは残念だが、
原著にも記載されていなかったのだろうか)
52頁から77頁までのかなり長い評論だが、61頁にはこう書かれている。
あらかじめ注意しておくが、
ここでは終始ピアノに抜萃したものによっているけれども、
これにも重要な個所には楽器が示してあるし、
またたとえ楽器の指定がなくても、
万事が実にオーケストラの性質に
ぴったりとあうように考察されていて、
あらゆる楽器がそれぞれ皆その処を得、
何というか根源的な音力を発揮するように用いてあるので、
ベルリオーズが遺憾なくその想像力を駆使している、
近代的な楽器編成によるオーケストラの効果を
心えている音楽家ならば、誰でも一応はスコアに直せるだろうと思う。
「重要な個所には楽器が示してある」という点から、
『幻想交響曲』を少しでもよく理解してもらいたい、という意図が窺われる。
また、かなり技術的に難しいらしいので、
家庭で弾いて楽しんで下さい、という楽譜ではないのだろう。
文意はちょっと分かりにくいが、
ピアノ版からオーケストラ版を再構成できる、
とシューマンは考えていたようだ。
ベルリオーズの管弦楽曲を聴いたことはなかっただろうと思うが、
「近代的な楽器編成」によるオーケストレイションが
できる作曲家なら一応は可能だろう、という主張である。
意地悪いことをいうと、
シューマンはオーケストレイションに
わりとケチをつけられることの多い人で、
マーラー編曲のシューマン交響曲全集なども
出ているくらいだ。
しかし、「あらゆる楽器がそれぞれ皆その処を得、
何というか根源的な音力を発揮するように用いてある」
などという個所は、
オーケストラに対するシューマンの
根本思想とでもいうべきものが窺われて興味深い。
リストの編曲については以下のように書いている。
リストは、この仕事に全く勤勉と熱意を打ち込んでいたから、
これはピアノによるスコア演奏法の実地教育として、
彼の深い研鑽の結晶たる一個の創作として見るべきものである。
この抜萃のような、名人たちのこまごまとした芸とは
全然質を異にした演奏法や、これに要するタッチの多様性、
ペダルの効果的な使用法、
編み合わされた声部の一つ一つの鮮明さ、
多くの鍵盤を綜合的に押さえることなど、
要するにピアノが今なおうちにひめている
多くの秘密や、手法の知識というものは、
ひとり演奏の大家にして天才たる人のみが
手がけるべきことであって、この点にかけては、
リストこそ万人が口を揃えて推奨する人物である。
だから、このピアノ抜萃は、
オーケストラの演奏とならんで堂々と聴かせることができる。
現にリストは、ベルリオーズのその後の交響曲
(この幻想交響曲の続編たる挿楽劇(メロローグ)(1))
への序奏として、最近パリでこれを演奏した。
註(1) その題名は《レリオ》、または《生への帰還》となっている。(70~71頁)
シューマンはリストの編曲をよく理解し高く評価した。
少し気になるのは「ピアノ抜萃」という言い方だが、
できればドイツ語でどう言っているのか知りたいところである。
もっと気になるのは「ベルリオーズのその後の交響曲
(この幻想交響曲の続編たる挿楽劇(1))への序奏として、
最近パリでこれを演奏した。」という個所である。
いつ、どこでの演奏だったのだろうか。
*訳者はあの高名な吉田秀和である。あとがきには、昭和16年に創元社から発行された単行本を岩波文庫に移したものだと書かれている。量的にはかなり削り、音楽用語も現代風に改めた、とのことだ。