その日、僕は眠たくてしかたがなかった。

北山駅から地上に上がって植物園に入ったのは

どこか日当たりのいいベンチで

日向ぼっこよろしくうとうとしたかったからだ。

 

でも、注文通りのベンチはどこも誰かがすでに占拠していた。

森の中の舗装道のような道をふらふら歩いて、

なんとか半分陽が当たっているベンチを見つけた。

差し出された枝が邪魔だったが、

そこで休むことにした。

わずかなぬくもりを貪ったが、

眠れなかった。

 

そのうちに陽が移り、寒くなって立ちあがった。

3月並の気候と言われても、

如月の空の下、

眠りに落ちればまた風邪をひくだろう。

昼寝をあきらめて、

やがて京都コンサートホールに入った。

プログラム1曲目が

ラフマニノフの『パガニーニの主題による変奏曲』

というよく知らない曲だったので、

そこで睡眠不足を補って、

メインのラヴェル『ダフニスとクロエ』全曲に

賭ける作戦もいいかもと思った。

この日は満席だった。

京響の定期は金土の2日の月もあるが、

2月は土曜だけだったせいかもしれない。

ラヴェルの『ダフニスとクロエ』全曲版は好きな曲なので、

人気が出てきているならうれしいことだ。

前回聴いたのはは関フィルの定期だった。

曲が終わって、

指揮者が可愛い朋美ちゃん(フルート)に

2度も握手を求めていたのをよく覚えている。

エロ指揮者め。

羨ましいじゃないか。

 

本日の指揮は準メルクル。

ドビュッシーの管弦楽曲全集のボックスを持っている。

珍しい曲も収められていて好企画だった。

ただ、『聖セバスチャンの殉教』は

モントゥー盤にははるかに及ばなかった。

今にして思えば、

秘曲と言ってもいいくらいの『聖セバスチャンの殉教』を

録音したモントゥーは

やはり並の指揮者ではなかった。

座席は後ろの方の通路から2番目だった。

左2席が空いていたが、

開演数分間になって、

大きなバッグを背負った、

男子高校生とおぼしき二人組がやって来た。

 

ラフマニノフの独奏はアレクサンドラ・ドヴガン。

黒髪を一本にまとめた、淑やかな乙女である。

演奏が始まると隣の高校生は

物珍しそうに見つめているな、

と思ったとたん、

俯いてスイングし始めた。

そうだスイングしなけりゃジャズじゃないぞ。

じゃなくて、数秒で完全に寝落ちだ。

ラフマニノフ恐るべし。

これほどの催眠作用があるとは。

隣で先に眠られると、眠れなくなった。

まあそれはいいとしても、

第9変奏あたりだったろうか、

高校生はこちらにもたれかかり、

スースーという寝息を出し始めた。

右隣の人物は花粉症で息がしにくいのか、

スーっと息の音をさせている。

スースーとスー。

それほど大きな音ではないが、

いかにもよく育ちそうなよく寝る子だけでも

どうにかしないといけないか、

と思いながらも、

睡眠の不可抗力はよく分かるなあ、

などと思案していた。

すると、

いきなり左斜め前に座っていた男が

振り向きざま、静かにしろ、と言ったか言わぬうち、

よく寝る子に一発くらわした。

眼鏡の底に怒りに燃える眼をしていた。

よく寝る子もさすがに眼をさましたようだったが、

そのうち俯きながら、今度はミュート睡眠に入った。

怒った男の方はと見ると、

薄暗い中でしきりにプログラムのページを繰っている。

アレクサンドラの演奏に

それほど興味がなさそうにも見える。

どうなんだろう。

『パガニーニの主題による変奏曲』は

無事終了した。

幕間の後、なぜか

右隣のミスター・スーと

左斜め前方の怒りの眼鏡氏は戻って来なかった。

高校生はしっかり眼を見開いて舞台を見ている。

見ている、見ている、眠っている。

たぶん午前中は部活で疲れたんだね。

 

 

 

でも、静かに眠れよ。一発お見舞いされないように。

 

翌日、映画『ハイパーボリア人』とオペラ『オルフェオ』で

それぞれ1時間無意志的睡眠をとってしまった。

睡魔恐るべし。

殴られなくてよかった。

 

*このストーリーは実話に基づいたフィクションです。