<クラシックファンの会話>
A:ベートーベンの交響曲は何曲あるでしょう?
B:第9が最後だから9曲。
A:ブブー、『戦争交響曲』を加えて10曲です。
B:『ウェリントンの勝利』ね。あれは実質的に交響詩でしょうが。
A:じゃあ、ウェリントンの勝利とはどの戦いでの勝利のことでしょうか?
B:そりゃ、ナポレオンにとどめを刺したワーテルローの戦いでしょう。
A:ブブー、正式な題名は『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』といって、1813年スペインのビトリアで、ウェリントン率いるイギリス軍がフランス軍に勝利した戦いでした。やった、ウェリントンで勝利だ!

<ウェリントン卿とルノルマン嬢>
またルノルマン嬢のことになってしまいますが、

マリー・ダグーの自伝『雪下のマグマ』には

「ウェリントン卿は自分を暗殺しようと

試みた男の名前を知ろうとして

(ルノルマン嬢のところへ)相談に行った」(p.296)

と書かれています。

ウィキペディアの

「アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)」を読んでも

この暗殺事件については何も書かれていません。 

<参考:暗殺未遂事件当時のフランス>
ワーテルローの戦いで

ナポレオンは敗れ再度退位したわけですが、

ルイ18世が戻って終わりではありませんでした。

フランスは7億フランの賠償金を科されただけでなく、

その履行を保証するため

15万の同盟諸国の外国軍がフランス国内に駐留し、

その費用もフランスが負担しなければなりませんでした。

(ソーヴィニー『フランス史』講談社選書メチエ p.414より)

その暗殺未遂事件の顛末が描かれているのは

『ボワーニュ伯爵夫人の回想録』

(Mémoires de la comtesse de Boigne Ⅰ

 

 

Mercure de France, 2008, p.693-p.635)です。

XV章

 私がパリに着いて数日たった頃、

わたしたちはウェリントン公爵に対する暗殺未遂に、

たいへん動揺しました。

真夜中に公爵の馬車へ向けて

ピストルから一発発砲されたのです。

公爵はシャンゼリゼ通りのホテルへ帰る途中でした。
 

 この事件は最悪の結果を生みかねないものでした。

ウェリントン公爵は当時一番の重要人物でした。

誰もがそう確信していましたが、

誰よりご本人がそう思っていました。

面白くないと思われたら、

とんだ災いになりかねないところでした。

したがって政府に関係のあるものすべてによって

この襲撃事件が大問題になりましたから、

翌日公爵はごく上機嫌でした。
 

 しかし何も見つかりませんでした。

誰も怪我をしませんでしたし、

弾丸も見つかりませんでした。

真っ暗闇の中で全速力で走る馬車に向けて

発砲されたのです。

すべてが疑わしく思えました。

野党が流した噂は、

公爵はウルトラ(超王党派)と結託して

空砲を撃たせたのだ、

これを口実にして占領を

長引かせようとしているのだ、

というものでした。
 

 ウェリントンという人物を

正しく認める必要があります。

そんな陰謀に荷担できる人ではありません。

公爵はそういった噂にはずいぶん腹をたてました。

私たちの運命は、

繰り返さねばなりませんが、

ほとんど公爵の好意次第でした。

公爵だけが率先して諸侯に、

自分が最高司令官を務める占領軍が

フランスに駐留することは、

ヨーロッパの平和のために必要ではなくなったのだ、

とはっきり言えたからです。
 

 全警察をあげて捜査にあたりましたが、

何も発見できませんでした。

ウルトラはもみ手をして、

外国人たちはあと五年駐留するぞと請け合いました。

やっとブリュッセルから真相が明らかになりました。

キネード閣下は革命派に深入りしていましたが、

そうはいっても暗殺までは許さない人物だったので、

革命委員会がカスタニョンという男を

差し向けたのだと告発しました。

その委員会はブリュッセルにあって、

過激派(ジヤコバン)はみなブリュッセルに

逃げ込んでいたのですが、

牛耳っているのはフランスから追放された

ボナパルト派(レジシード)だったのです。

カスタニョンが公爵に向けて発砲した証拠が

見つかりました。

カスタニョンは裁判所送りとなって厳しく罰され、

公爵は満足されました。

公爵は自分の指揮下にある軍隊から

フランスを解放するという計画に

誠実にとりかかりました。

しかし、公爵の気紛れがたえず危惧されました。
 
進駐軍の撤退は1818年11月

アーヘン(エクス・ラ・シャペル)の会議で決定しますが、

ものごとが淡々と進むわけはありませんでした。

そのお話はまたいつか。