(三)

戊寅の年 吾 碕陽に遊び
蛮医に遭逢して其の詳しきを聞く

戊寅(つちのえとら)すなわち文政元年に私は長崎に旅し、
オランダ人医師に出会って

フランス王についての詳細を聞いた。

自ら言ふ 陣にありて金創を療し
馬を食らひて死を免るるは今に忘れずと

医師自らも王の軍営にあって

戦場の治療に当たったが、
馬を食べて死を免れたことは

今も忘れないということだった。

君見ずや 何の国か 

貪ること狼の如きもの蔑(な)からん
勇夫は重閉して預防を貴ぶ
又た見ずや 禍福は縄の如し 何ぞ常とす可けん
兵を窮め武を黷(けが)すは

毎(つね)に自ら殃(わざわい)す

諸君は見たことがあるだろう、

どこの国も狼のように貪欲だということを。
だから、勇士は戸締まりを厳重にし、

災悪の予防を貴ぶのだ。
また諸君は見たことがあるだろう、

災いと幸せとは縒り合わせた縄のようなもので、
いつも定まってはいないということを。
したがって、武力を乱用して戦争を仕掛ける者は、

常に自ら災いを招くのだ。

ナポレオンに攻められたロシアが

今はウクライナを攻めています。
いつかまたロシアが、

いやもしかするとプーチン独裁体制が

攻め立てられる日が来ないとも限りません。
又た見ずや 禍福は縄の如し 何ぞ常とす可けん
兵を窮め武を黷(けが)すは毎(つね)に自ら殃(わざわい)す
プーチンに聞かせてやりたい句です。    

方今 五洲 奪攘(だつじょう)を休(や)む
何ぞ知らん 殺運 西荒を被(おお)ひしを
詩を作り異を記して故郷に伝ふれば
猶ほ覚ゆ 殺気の奚囊(けいのう)より迸るを

今のところ、世界の五大州では

侵略行為が止んでいるが、
戦乱の気運が世界の西の果てを覆っていたとは知らなかった。
私は詩を作り、

こうした異聞を故郷に伝えることにしたが、
出来上がった詩を、

従者に持たせた袋に仕舞い込んでも、
まだ殺気が袋の口から迸り出ているような気がするのである。

1818年、頼山陽は広島で父の三回忌の法要を済ませた後、

西国遊歴の旅に出る。

下関、博多を経て長崎に着いたのは

5月23日で3ヶ月滞在していた。

その間にオランダ人医師ハーゲンから

ナポレオンについて話を聞いた*4。

たまたまハーゲンが

ロシア遠征に参加していたおかげで

悲惨な戦場の様子を聞くことができた。

ナポレオンの勝利はあまたあっても、

没落のきっかけになった

ロシア遠征を取りあげたのは適切だった。

 

 

揖斐高『頼山陽』岩波新書p.40参照


スタンダールもロシア遠征に参加していた。

日記には火を放たれたモスクワから

混乱の中退却する様子が描かれている。 
 

揖斐氏の解説によると、頼山陽は漢詩人なので

『左氏伝』や『史記』や『漢書』などの

表現を典拠として用いて、

古代中国の英雄たちと重ね合わせて描いている。

一方スタンダールは西洋の古代史に目を向ける。
「1796年5月15日、ボナパルト将軍は、

ロディ橋を渡ってカエサルとアレクサンドロスが

いくたの世紀を経て一人の後継者をえたことを

世界に知らしたばかりの、

あの若々しい軍隊をひきいてミラノに入った」
名高い『パルムの僧院』の冒頭である。
(『スタンダール全集 2』(人文書院 1977年)

 

 

 

 

所収の生島遼一訳『パルムの僧院』)