私はこういった朗読会は

やはり不都合なのものだと確信していました。

それでも朗読会に関わった人たちは

私が抱いた躊躇いをすべて拭い去ろうとしていました。
 

 私は原稿の小冊子を二部持っていました。

しまい込んでおくのはもう不親切でしかないと思いました。

それで冊子を貸し出したのですが、

すぐに後悔しました。

というのは、毎朝貸して下さいという手紙を

20通いただくことになったからです。

人に言って順番に名前を記入してもらいました。
 

 これほど完璧で、

あるひとつの党派を益する成功を収めた

瞞着はありませんでした。

半分だけ公表されているせいで、

一種のマニフェストになった作品に、

流行と禁じられた果実という価値が加わりました。

人を集めて朗読会を行ったことで、

人から人へと放たれるあの電気を呼び、

それだけいっそうこの本は

あらゆる情念をかき立てるに適したものになったのです。

私は帝政主義者の集会で行われた朗読会には

一度も出席しませんでした。

しかし私たちブルボン派のサロンに及ぼした影響を鑑みると、

朗読会は深く魂を動揺させ、

あらゆる憎しみと後悔を深めたのだと推測できます。
 

 『セント=ヘレナの原稿』は少なくとも

愛書家の陳列室では偽書として今後も名を残すでしょう。

それはベルナール・ド・ノヴィヨン氏の

筆になるものでしたが、

氏は文学的名声からはほど遠く、

皇帝を近くから見て関わりを持ったのは

百日天下の間だけでした。
 

  作者か知られてからというもの、

騙されるなんてあり得ないことだなどと

さかんに言われましたが、

この冊子が登場した当時は、

疑いの声をあげれば必ず

ずっとひどい非難を浴びせられたものでした。
 

(1841年の注記)

25年間この出版物の成功から利益を得て

報酬さえ得た後で、ベルナール・ド・ノヴィヨン氏は

その真の作者であるシャトーヴィユー氏*に

その栄誉を返しました。

私は時が経つうちにシャトーヴィユー氏の

名前が浮かんできたのですが、

まったくの反帝国派のシャトーヴィユー氏の

習慣、人間関係、意見から

私はその考えを重視しようとしませんでした。

現在それを信じるには、

彼の確言と彼の手になる原稿の複製

 

 

ベルトラン・ド・ノヴィヨン氏の告白が必要です。

*ジャコブ・リュラン・シャトーヴィユー(1772~1842)は

スイスの農学者。

『サン=ジェムスからの手紙』を発表した。

そのなかでは現代の政治についてかなり

自由に語られている。(303頁の注 Berchet)

翌年1818年、地球の反対側の日本では、

ある詩人がナポレオンを詩に詠んだ。

頼山陽の『仏郎王の歌』である。

どうして頼山陽はナポレオンの事績を知ったのか、

そのお話はまたいつか。