高階先生のルネッサンス美術の講義を

聞いたのは今から40年以上前のことである。

当時からさまざまな著作で

高階秀爾という名前はよく存じ上げていたので、

軽い興奮を覚えながら授業に臨んだ。

まず最初にルネサンスはなかったという説もあるが、

1500年~1515,6年頃、

最大限ラファエロが亡くなった1520年までがルネッサンスである、

といわれたのは記憶に残っている。

主に、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの

3人が取りあげられていたと思う。

レオナルド・ダ・ヴィンチというのは

国定村の忠司というのと同じで

ヴィンチ村のレオナルド、という意味だ、

という先生にしては珍しい冗談を

聞いたのはこの講義のことであったろうか。

ウィキペディアを見ると

呼称として「ダ・ヴィンチ」と称することがあるが、

これは固有の苗字というより、

「ヴィンチ村出身」であることを意味しているため、

個人名の略称としては

「レオナルド」を用いるのが適切である。

ただし、レオナルド本人や知人が

「ダ・ヴィンチ」あるいは「ヴィンチ」を

苗字として記した例があり、

まったくの誤りとも言えない

と書いてあった。

レオナルドと言った方がなんか本物ぽいとか、

キザだとか感じていた方、

国定じゃなくて忠司と言ってるわけです。

こちらは美術は好きでもあまり知識はなく、

ギルランダイオーと先生が言われるたびに、

フリードリッヒ大王は音楽好きで

フルートを吹いたり、作曲をしたりしていた。

きっとギルラン大王は美術好きだったんだな、

と独り合点していた。

アホでした。

 

高階先生については

とても頭がよく

超高速でラテン語の文献を読む人だ、という噂を聞いた。

授業は内容は専門的でもよく整理されていてたいへん分かりやすかった。
ときどきスライドで美術作品が映し出された

―コンピューターでサクサクプレゼン

とかいう時代じゃなかった。

その中でレオナルドの『聖アンナと聖母子』が

大きな画面に映し出されたときには深い感動を感じた。

私は少年時代から

美術、音楽、文学など

さまざまな芸術作品に親しんではきたが、

後まで記憶に残る感動を覚えたのは

このときとバッハの『マタイ受難曲』のある曲が

テレビから流れてきたときくらいである。

大教室のスライドはむやみに拡大したせいか

映像としては最低限形は分かるが

色はよく伝わっていない代物だった。

『聖アンナと聖母子』は

マリアが自分の母である聖アンナの膝に乗って、

裸の幼子イエスに腕を伸ばしている、

というちょっとかわった構図だ。

というか、マリアはかなり無理な姿勢である。

今見ればそんなことを考えてしまうが、

なぜか感動してしまった。

出会い頭の感動というべきか。
 

講義は半年だけだったが、

翌年単位が取れていなかった。

それもよく気がついていなかったような気がするが、

同じ被害にあった

仏文同級生の某嬢に率いられて

美術史の研究室に乗りこむ仕儀となった、

という後日談がある。
 

その後、『ローマ・ナポリ・フィレンツェ』などという

スタンダールの旅行記の授業に出たときは、

イタリア人画家の名前を読み間違えて

冨永先生から叱られた。

結局そこそこ勉強しているつもりで

何も身につけることができないまま

学生生活が終わってしまった。

 10月30日の朝日新聞に三浦篤氏が

『美術史家 高階秀爾さんを悼む』という

追悼文を寄せている。

三浦氏は私より一つ年下だ。

あの研究室は三浦氏にとってはホームグランドだったのだろう。

 

今はリストとマリー・ダグーが協力して書いた旅行記

『音楽バシュリエの書簡集』を訳しているが、

ベンヴェヌート・チェッリーニの『ペルセウス』や

ラファエロの『聖チェチーリア』について

熱く語った書簡が出て来る。

翻訳が完成したら高階先生に読んで欲しかった。