『音楽バシュリエの書簡集』は
フランツ・リストの旅行記ということになっているが、
ある程度マリー・ダグーが執筆したということも分かっている。
ある程度という言い方しかできないのは、
原稿が残っていないので、
筆跡鑑定等から執筆者を特定できないからである。
ちなみに3種のフランス語版、英訳版ともに
単にフランツ・リストの著作とされている。
昔から本当の執筆者はマリー・ダグーだ
という主張はあったようなのだが、
フランス語版リストの著作集の編・注釈者レミ・ストリッカーも、
英訳者チャールズ・サットーニも
リストの著作権を守ることの方に熱心である(1)。
ただ、福田弥(わたる)氏は
「マリーとの共著の可能性が高い」と書いている
(『リスト』音楽之友社 2005年、54頁)。
私はいつか『音楽バシュリエの書簡集』を
フランツ・リスト、マリー・ダグー共著として
翻訳出版したいものだと思っている。
出版関係で興味のある方はぜひご連絡下さい。
マリー・ダグー執筆説の根拠としては、
リストがマリー・ダグーに執筆依頼をした書簡などもあるが、
『バシュリエ』を読んでいると、
マリーの日記とほぼ同じ文章が出てくることもよくある。
マリー・ダグーが夫と娘を棄て
リストと出奔したのが1835年5月。
それから1839年10月まで、
いわば二人の同棲時代が続く。
『音楽バシュリエの書簡集』は
『ガゼット・ミュジカル』という音楽新聞に
不定期に連載されていた。
その第1回は1835年⒓月6日、
最後の16書簡は1841年9月19日。
マリーとフランツが決定的に決裂するのは
1844年のことなので、
『音楽バシュリエの書簡集』は
およそ二人が愛し合っていた時期の作品と考えてよい。
そして拙訳『巡礼の年 リストと旅した伯爵夫人の日記』
(青山ライフ出版、2018年)は
マリー・ダグーがリストとスイス、イタリアなどを
旅していた頃の日記である。
スイス、イタリアと聞けば、
リストの『巡礼の年 第1年スイス 第2年イタリア』を
思い浮かべた人もあるだろう。
実際『巡礼の年 第1年』へとかたちを変えることになった
『旅人のアルバム』、
『巡礼の年 第2年』とその補遺『ヴェネツィアとナポリ』の初稿は
1837年から1839年のイタリア滞在中に作曲された
(前掲書 56頁)。
リストの『巡礼の年』が好きな人には、
マリー・ダグーの日記と
『音楽バシュリエの書簡集』をぜひ読んでもらいたいと思う。
(1)Franz Liszt, Artiste et Société, Flammarion, 1995, Préface。英訳はFranz Liszt, Artist's Journey, Translated and annoted by Charles Suttonie, University of Chicago Press, 1989。
以上が長くなってしまった前置きである。
さて、マリー・ダグーとリストは
フランスを出国してから
同棲解消の1839年までずっと国外にいたわけではない。
1836年10月にパリへ戻り、
その後ノアンのジョルジュ・サンド邸に長期滞在した後、
1837年7月リヨン、ジュネーヴ経由でイタリアへ向かった。
その途中、グルノーブルのシャルトルーズ修道院を訪れたのである。
『音楽バシュリエの書簡集』では
第Ⅳ書簡にその様子が描かれている。
8月15日の聖母被昇天の日だとされているが、
実際は8月6日であったことがマリーの日記から分かっている。
シャルトルーズの修道院は山奥にあるので
4時間も歩かねばならなかったのだが
、マリーは中に入れてもらえなかった。
リストひとりが礼拝堂に入ったが、
そこで聞いた賛美歌はあまりにもひどいものだった。
「生き生きしたもの、人間らしいものが何もありません」
急いで外へ出ると、外には豊かな自然が広がっている。
「何という時代錯誤!」
そして、修道院を知的労働や工場として利用するという
改革案が提案される…
スタンダールはどんな人かと問えば、
『赤と黒』や『パルムの僧院』などを書いた
小説家という答えが返ってくるだろう。
『恋愛論』まで知っていれば上出来である。
しかし相当量の旅行記も残していて、
さがせば日本語でも読める。
グルノーブルのシャルトルーズ修道院の訪問記が
読めるのは山辺雅彦訳『ある旅行者の手記 2』
(新評論社 1985年)166頁~184頁である。
フルヴォワリ9月1日という
日付がついているが(1)、
「8月半ばだというのに、
狭い廊下を歩いていると寒気が肌を刺す
」という一文があり、
実際は8月中旬くらいに修道院を訪れたのかもしれない。
そうすると、マリー、フランツとは
約10日ほどの差だったということになる。
(1)修道院で一泊して翌朝、修道院近くのフルヴォワリで書いた、ということ。
スタンダールの旅行記は
「鉄のセールスをしているL氏の日記」という設定になっている。
スタンダールことアンリ・ベールの本職は
チヴィタヴェッキア(ローマ近郊の港町)の
フランス領事だったので、
立場上王や政府を批判しにくかった。
著者も単に『赤と黒』の作者、とされていた。
スタンダールはL氏という仮面のおかげで
自由になれたようだ。
ミシェル・クルーゼは
『ある旅行者の手記』についてこう書いている。
「おそらくスタンダールの全作中
もっとも自由な作品である。
そこでは、無数の愚か者にとっては
本物の挑戦となるのだが、
空気の精が無重力状態で、
ありとあらゆるパラドックスを操っているのだ」
(Michel Crouzet, Stendhal, Flammarion, 1990, p.681 )
ともかく8月31日の早朝4時に、
L氏は案内人の男と馬に乗ってグルノーブルから出発。
途中のル・サッペというところに着くあたりで、
シャルトルーズ会修道院へと登る
グルノーブル人の団体と出会う。
その中には6人の若い女性がいた。
一行にはN氏という博学な人物がいて、
修道院の起源と歴史を語るのだが、
その中にギグ師のしきたり、というものが出てくる。
すなわち修道院の規則なのだが、
「女がわれらの境内に侵入することは断じて許さない」
という容赦のない一文があって、
女性たちは中に入れてもらえないし、
マリー・ダグーも同じ目にあった、というわけだ。
夕食は鯉のフライ、ジャガイモ、卵など素朴なものばかりだった。
修道院はもともと92もの池を所有していて、
鯉を飼って修道士の食料にしていた。
革命の時代に池を干上がらせて売却された、という歴史があった。
注文してもコーヒーは出なかった。
グランド・シャルトルーズに
コーヒーのような余計なものはない、
との修道士の言葉に、
若くて元気のよい女性がやり返す。
「でも、神父さま。
タバコならお吸いになっていらっしゃるようですわね。」
その夜は激しい嵐になるのだが、
男性は全員修道院へ、
女性たちは修道院から200歩離れた病床に泊まれ、
と言われる。
恐怖に陥った女性たちの一人が
「盗賊が襲ってきたらどうなるの?」と聞くと、
どんな叫び声が聞こえても、
仮に銃声が聞こえても、
夜間は修道院の扉を絶対開けられないという。
「開けるには、ローマへお伺いを立てねばならないでしょう」
盗賊は来なかったが、
なぜか嵐の夜に森にいた若者たちの一団が、
何も知らずに女性たちの窓辺にやって来て歌を歌ったり、
隣の部屋の火に暖まって暢気におしゃべりをしたりしたので、
女性たちが驚き恐怖に陥った、という一幕もあった。
ともかく、恐ろしいことは何も起こらず、
翌朝はすばらしい朝食にありつけた、
というめでたしめでたしの結末となった。
フランス語で読んで以来、
何十年かぶりで山辺氏の訳文で読んでみて、
ユーモア溢れる文章が楽しかった。
このような要約で少しは楽しさが伝わったろうか。
もし、マリーとフランツの二人が
スタンダールと出会っていたら、
双方どんな文章を残しただろうか。
想像はつきない。