「アルプススタンドのはしの方」に次いで

高校演劇のオリジナル作品が映画化された。

山下敦弘監督の「水深ゼロメートルから」である。

「アルプススタンドのはしの方」は

東播磨高校演劇部の顧問藪先生の戯曲がもとになっているが、

「水深ゼロメートルから」は

中田夢花が徳島市立高校三年の夏に執筆したもので

映画の脚本も担当している。

 「水深ゼロメートル」とは

水のかわりに

野球部のグラウンドから吹かれてきた砂が

底にたまっているプールを暗示している。
 

高校2年の夏休み、

体育教師の山本から呼び出されたココロとミクは

特別補習としてプールの掃除を命じられる。

水泳の練習になってないが、

実際現場ではありがちな話である。

(それが山本の気配りではないのかという

解釈が最後の方で示されるが、それは見てのお楽しみ。)

 

そこへ男子が出場しているインターハイの応援にも行かなかった

水泳部部長のチヅル、

水泳部を引退した3年のユイも加わり、

何かと気になる野球部のエースのこと、

生理のときの水泳の授業、阿波踊り、メイク、

水泳部についてなど会話が交わされてゆくが、

なかなか砂は減らない。

つぎつぎ野球部のグラウンドから砂が飛んでくるだけではなく、

プールの改修工事が予定されているので、

実はプール掃除は徒労にすぎない。

 

ドストエフスキーがもっとも恐ろしい刑罰は、

一つの桶から別の桶に水を移し、

その桶からまたもとの桶に移すという

無意味な作業をさせることだと書いていたのを思いだした。

ネットで調べると、ひたすら砂を槌で叩くとか、

一つの場所から別の場所に土の山を移すといった作業もあげられていた。

まさに「砂の女」の世界である。

 

「砂の女」は蟻地獄のような女に捕まった男の話だが、

野球部という、(仕えて支える女子マネージャー以外は)

男ばかりの世界から砂が飛んでくるプールには少女しかいない。

野球場とプールが

ジェンダー不平等の空間として機能しているので、

プールの砂をグラウンドに棄てに行ったチヅルの行為が

象徴的なものとなる。
 

女子としてうまく生きるためにメイクに精をだしたり、

阿波踊りで男踊りをすることで男女の壁を乗り越えようとしたり、

少女たちはそれぞれ生き方を探っている。

リアリティもあり、

登場人物もよく書き分けられていて、

確かによく出来た脚本だと思う。

 

それをどう映像化したかだが、

まず、水のないプールが

硬質で抽象的な建造物として幾何学的な背景をなしていた、

というヴィジュアルを指摘したい。

学園ものというと

教室や、廊下や下足ロッカーなどという建物の内部と、

屋上、グラウンドなどが出て来るが、

水のないプールは開かれた建造物でありながら、

屋上のようなパノラマが開けない。

地面より一段低い独特な空間である。

それを活かすためにロングショットや、

プールに腰掛けた人物の全身が入るミドルショットなどが多く、

アップは少なかった。

 

アップは舞台にはない、映像作品の強みともいえるが、

あえてそれを使わなかったことで、

抽象度が高くなった。

快晴の空のもと、

ほぼ順光で非常に明確な映像。

砂という無機物だけを相手にする掃除には

教室の掃除のような生活感がない。

女子高生たちは

同じ制服を着崩すことなく正しく着用している。

髪を金髪にそめた生徒もいないかわりに、

山本とココロがメイクについて言い争う。

生活感もおのおのの意見も

すべて台詞に託されている。

そして、あらかじめプールには

水という叙情的な媒体が失われていた。

最初からストイックなスタイルなのだ。

だから終幕近くの驟雨がとても美しい。