フルトヴェングラーは

愛するということは評価することである、

と書いた。

私は、

評価することは愛することではない、とそれにつけ加える。

半年間「ブギウギ」を見続けた。

ドラマはよいできだった、と思う。

草彅剛の演じた音楽バカの作曲家が面白いキャラクターだったし、

市川実和子があれだけ終始いい人を

上手に演じていたのを見たのも初めてだと思う。

趣里は舞台でのパフォーマンスが圧巻だった。

技術以上に訴求力のある歌だった。

と無難にまとめておいても、心の中にあいた隙間は埋まらない。

半年間週五日ずっと趣里の顔を見てきたわけだが、

半年前と同じく趣里には憧れも欲望も感じない。

評価することは愛することではない、とはそういうことだ。

「虎に翼」の主演が伊藤沙莉だと知ったときは

今度の朝ドラは見ないようにしよう、と思った。

しかし、石田ゆり子が出演すると聞くと、

見ないわけにゆかなくなった。
 

第5話では娘の結婚を進めようとする母(石田ゆり子)と

法律家を目指す娘(伊藤沙莉)二人のシーンがあった。

石田ゆり子の顔は年齢を感じさせるメイクになってはいた。

しかし何十年間も好きだったその顔から、

娘の気持ちを分かりながらも将来を案じる複雑な感情を、

読み取ることができた。

伊藤沙莉の顔を見ても

干上がった池の底を見ているような気分になるだけだった。

これは趣里の場合と異なり、

愛せないがゆえに評価できない、ということだ。

最近、テレビのヴァラエティ番組などで

おなじみの女優が出てくると、

「俳優」というテロップが出て来るようになった。

「女優」という文字はとんと見ない。

あれこれ批判されるのが嫌なのだろう。

ルッキズム批判というものも喧伝されていた。

だが、政治的に正しいことが絶対的に正しいことだろうか?

そこから洩れ落ちるものは、感情の真実の中にある。

「演劇、映画、テレビなどで演技をする人」という俳優の定義からは、

演技に対する「評価」を導き出すことはできても、

「愛」を導き出すことはできない。

昼「虎に翼」の前に

⒓時半から「ちゅらさん」が再放送中だ。
可愛いえりぃに毎日会える!