さてマリー・ダグーはどのくらい詩を書いていたのでしょうか?

デュペシェの「マリー・ダグー」の年譜を見ると

1862年8月19日 

マリー・ダグーはpremiers vers(最初の詩)を書く。
となっていて、その後

1862年11月29日 

マリー・ダグーは最初のソネ「In Alta Solitudine(孤独の高みにて)」を書く。
 

1862年⒓月3日  

2番目のソネ「l'Olivier(オリーブの木) 」。
 

1863年5月1日  

ダニエル・シュテルン(マリー・ダグーのペンネーム)の

Poèmes(詩)、雑誌「ラ・ルヴュ・ジェルマニック」。
 

1865年7月1日  

ダニエル・シュテルンの「Poésies(詩)」、

「Sonnts(ソネ)」、

「Dieu muet(無言の神)」、

「Prométée(プロメテウス)」、

雑誌「ラ・ルヴュ・モデルン」。 
                                        
若干の解説
ソネ
ソネは英語では「ソネット」。

2つの4行詩と、2つの2行詩からなる⒕行詩です。

付録Kの詩もソネですね。

In Alta Solitudine
「雪下のマグマ」に付された

シャルル・デュペシェ氏による解説には

以下のように書かれています。

In Alta Solitudine(孤独の高みにて)がマリーの信条だった。

おまけにリストはその文字を彫らせた指輪を贈った。

他の者たちより高く上りたいからという

よりむしろ自分を守るためである。

誰よりも容赦なく真実を要求しつつ、

力に余る自尊心に苛まれ続けること、

それがダグー夫人の痛ましい運命である。                        

つけ加えるとIn Alta Solitudineはイタリア語です。

Prométée(プロメテウス)
プロメテウスは神々から火を盗んで人間に与えたため、

ゼウスによってカウカソス山に鎖でつながれました。

毎日再生する肝をワシに食われましたが、

ヘラクレスに解放されました。

シェリーには

「鎖を解かれたプロメテウス」という劇詩があります。

以上からすると、

少なくとも10篇の詩が発表されたことになります。
発表されなかった詩は

どのくらいあってどのくらい残っているのか、分かりません。

マリー・ダグーを詩人と呼ぶ人がいないのは、

詩集が出版されたことがないからです。

質的には、雑誌に掲載できたのなら

書籍化も可能だと考えられます。

詩集を出せるほどの多くの詩は書かなかったのでしょうか?

マリー・ダグーは

ドイツの詩人ゲオルク・ヘルウェーク(1817~1875)と親しく、

互いにやりとりした書簡が多く残っています。

1844年3月2日、

マリー・ダグーはヘルウェーク宛の手紙で以下のように書いています。

昨日あなたは

私がクロディーヌ・ポトツカに宛てて書いた散文*を詩にすると

おっしゃらなかったでしょうか?

とてもうれしいことです。
あなたに宛てた私の詩も詩にして下さらなければいけません。

内容は以下のようなものです。
 

「君のように私には祖国も希望もない。

君のように私は夢みて泣く。

人の苦しみが底なしの深淵となる際で。

ああ、神が送りたまいし苦悩する兄弟よ、

かつて私が祈ったあの天使たちの中で君が一番美しい、

君は私の前を歩む…どこへ行くのだ?」
(「マリー・ダグー書簡全集」第4巻p.496

(「あなたに宛てた…ものです。」はドイツ語)

マリー・ダグーの詩については3日遡って、

2月28 日の

ヘルウェークがマリー・ダグーに宛てた書簡に取りあげられています。

フランスの伯爵夫人の詩に関しては

関わりのない人たちほど語学的な欠点は心配はしていません。

あの詩を完全に聞く、というより所有したいものだと思います。

詩の憂鬱は私に伝染し、

ソネの終結部を書きましたが、まだ頭が欠けています。

私は深く感じる、私は自由な人間ではないと、
王の軛をもう私は引きずってはいないが
それでもすべての奴隷はわが暴君のままだ。

私は宮殿と大理石の階段から逃げ去る。
そして手に入るすべては

 

 

 

人間草原の中での孤独だ。

孤独は得られても、自由は得られない。

マリー・ダグーが送った詩は、

おそらく2月28日ゲオルク・ヘルウェーク宛の

マリー・ダグーの書簡に書かれていました。

しかしその手紙は見つかっていません。

「散文を詩にする」のではなく、

「詩を詩にする」とはどういうことでしょうか?

「フランスの伯爵夫人の詩に関しては

関わりのない人たちほど語学的な欠陥は気にしていません。」

linguistische Mängel(語学的な欠点)という表現から、

マリーがドイツ語で詩を書いて送ったと考えられます。

マリーはドイツ語とフランス語のバイリンガルでしたが、

やはりフランス語ほどドイツ語はできなかったでしょう。

脚韻が踏めていないような

つたないドイツ語の詩を送ったのでしょうか?
とにかくマリー・ダグーは詩を書こうとしていたのは確かです。

ではどうして

「1862年8月19日 マリー・ダグーはpremiers vers(最初の詩)を書く。」

と言えるのでしょうか?

日記にでも書いてあったのでしょうか?

日記もしくは備忘録agendaは

「マリー・ダグー書簡全集」の付録として各巻に掲載されています。

残念ながら、

書簡全集は1862年分の書簡等を収めた第11巻までしか購入していません。

買うとなるとまた1万円札が飛んで行く。

嗚呼。                                                                            

 

*『巡礼の年』p.387~p.388参照。「僧坊よりの手紙 XII」。