マリー・ダグーを詩人と呼ぶ人はいませんが、

詩を書いてはいました。

彼女の自伝『雪下のマグマ』の「第一巻への付録 K」は以下の様になっています(p.305~p.306)。 

                               K

四十年以上経って私はまだあの影響を感じる。

ライン河畔へ遠足をした帰りに、

フランクフルトでゲーテの彫像を再び見て

生まれた印象を表そうとしたのがこの詩である。
 
力強い季節の長い夕べのことだった。
季節は大地に果実と花を惜しみなく与え
黄金の束で刈り入れ人の荷車を満たし
曲がった葡萄の幹に黄色く染まる房を膨らます。

一日の最後の火とその静かな光輝が
遠くタウヌス山の燃える頂を金色に染めていた。
ダンテの空に耀く美しい愛の星が
いにしえの皇帝の都市に上ろうとしていた(1)。
  
あなたの栄光がそびえ立つ高い台座の上に
夢のようにやさしく、ヴィーナスの眼差しで
ああゲーテよ!あなたの広い至高の額が耀いた、
  
その時沈黙と影をまとって
おずおずと私はあなたの像の足下で口づけていた、
青銅のマントの硬く冷たい襞に。
  
  (1)訳注:タウヌスはフランクフルト近郊の山地で

最高峰は880メートル。

「いにしえの皇帝の都市」はゲーテとマリー・ダグー共通の生まれ故郷、

フランクフルト・アム・マインである。

フランクフルトはライン川の支流であるマイン川に臨んでいる、

ドイツ中部の都市。

九世紀からカロリング王家の居住地であり、

1562年から1792年の間はアーヘンに代わって皇帝戴冠式の地となった。

「美しい愛の星」はヴィーナスこと金星である。

「ダンテの空」については、ベアトリーチェがダンテを天上の世界へ導くという、

『神曲』の構造を背景に考えると、

憧れをこめてダンテが見上げた空、といったところ。

皆さんはこの詩をどう思われますか?
私はとてもいいと思っています。

マリー・ダグーの母親はフランクフルトの大ブルジョア、

ベートマン家の娘であり、

父親はフランスの由緒ある貴族アレクサンドル・ド・フラヴィニーでしたが、

革命後アレクサンドルはフランスを離れ、

フランクフルト・アム・マインにやって来ました。

ベートマン家の次女マリーア・エリーザベトと

アレクサンドルは恋に落ち、

1797年家族の反対を押し切って結婚します。

 (マリーア・エリーザベトは未亡人でした。

幼い娘アウグステとともに実家に戻っていました)

二人の男子が誕生した後、

1805年⒓月30日から31日にかけての深夜、マリーが生まれます*。

夫婦別れした後も、ダグー伯爵夫人で通っていたようです。
 

その後、一家はフランスに居を定めますが、

いったん王政復古となったのもつかの間、

1815年ナポレオンがエルバ島を脱出したという知らせを聞いて、

マリーたちはフランクフルトに避難します。

フランクフルト滞在は翌年夏まで続きます。

生まれ故郷に里帰りしたとも言えるわけですが、

大好きなお父さんと離れて暮らすのは

幼いマリーにとっては辛いことでした。

このフランクフルト滞在中、

1815年9月にゲーテがベートマン家を尋ねてきます。

伯父さんからマリーはゲーテに紹介してもらいます。

ゲーテはマリーの手を取って少し歩いて、ベンチに腰を下ろします。

突然のことに唖然とし、どきどきして口もきけないマリーでした。

このときの印象をマリーは以下のように描いています。
                                        

燃えるような二つの大きな瞳と

輝いているような美しい広い額を見ると

眩暈のようなものを感じた。

親戚にいとまを告げたとき、

ゲーテ氏は私の頭に手を置いて、

そのまま私の金髪をなでた。

私は息もできなかった。

もう少しで跪ずいてしまうところだった。

まさか、この磁気を帯びたような手の中には、

私にとって一つの祝福、

守護の約束があるとでも感じていたのだろうか?

分からない。

ただこれだけは言える。

長い人生で、心の中でこの祝福する手の下へと身をかがめ、

再び立ち上がるときには

いつも元気が出て気分が良くなる、

 

 

ということが何度もあったのだ。

(「雪下のマグマ」p.67)

ゲーテはマリーにとって生涯を通じて

神にも等しい存在だったと言えるでしょう。

詩の前に「四十年以上経って私はまだあの影響を感じる。」

と書かれていますが、

「あの影響」とはゲーテが与えてくれた「祝福」のことでしょう。

1815年の40年後だと1855年になりますね。

シャルル・デュペシェによる伝記「マリー・ダグー」に

掲載されている年譜を見ると

1865年七月初旬に「ライン河畔へ旅行」と書かれています。

「ライン河畔へ遠足をした帰りに」というのはこのときのことでしょうか。

また1864年から1865年にかけて、

マリーは対話形式の文学論「ダンテとゲーテ」を雑誌に発表します。

1865年はゲーテへの関心が高まっていた年であったことは間違いないでしょう。

ただ、40年というより50年ほど経っているので

40年以上というのが不自然に感じられます。

このあたりは今後の研究課題です。

 

*このときはまだマリー・ダグーじゃありませんよ。

お父さんがフラヴィニーだったので、

マリー・ド・フラヴィニーです。

後にダグー伯爵と結婚してダグー伯爵夫人となります。

分かっている人には余計な話ですが、

大学に入って西洋の文学、歴史などを学び始めると

この辺で引っかかったりすることがよくあるので念のため。