「ポエテスと呼ばないで 3」は

夫から習って詩を書くようになった二人の妻についてでした。

どちらも武家でもかなり上級の家庭出身の女性でした。

今回は出身家庭は不明ですが、

祇園の芸子さんの詩を紹介したいと思います。

今回も「江戸漢詩選 下」より、

揖斐高先生の読み下し文、現代語訳、解説によるものです(252~254頁) 。

長玉僊(ちょうぎょくせん)という人なんですが、

生没年不明で文化年間半ば頃に二十代か、となっています。

文化年間は1804年2月から1818年4月です。

中間の1811年に20才~29歳だったとすると、生まれたのは1782年から1791年頃、

だいたい1780年代というところですね。

人物紹介には

玉僊は字で、名は知理。

幼い頃は江戸深川に住み、後に京都祇園で芸者になった。

京都滞在中の柏木如亭と恋愛関係になって如亭に詩を学び、

「海内才子詩」には五言絶句4首が再録されている。

とあります。

柏木如亭という人は 「江戸漢詩選 下」では七首採られているので

江戸時代の詩人のなかではかなりの重要人物ですね。

生没年は1763~1819なので玉僊より20歳くらい年上でしょうか。

知り合って数年で如亭が亡くなったと想像できます。

如亭は「如亭散人題跋」の中で

「祇園の知理校書*、天資聡慧(てんしそうけい)にして能く幾巻の文字を読む。」

と書いています。

現代人と比較して、どのくらいの学力だったのでしょうか。

今や大学入試に漢文はほとんど不要になっていますから、

現代の大学生より漢籍はよく読めたかもしれません。
ちなみに、ある本に、

漢詩を一人前に書けるようになるには10年かかると書いてありました。

「如亭散人題跋」には、如亭が十本の扇に七絶十首を書き、

その詩の訳注も与えて詩作指導のテキストにしたことも書いてあります。

そういった指導で、10年もかからずに詩を書けるようになったようです。

さて、玉僊はどんな詩を書いたのでしょうか。

無題

生小(せいしょう) 深川に住み
長大 祇園に居る
春風 東より至り
故故(しばしば)涙痕(るいこん)を吹く

幼い頃は江戸の深川に住み、
大人になってからは京の祇園に身を置いています。
春風は東の方角からやって来て、
しばしば私の涙の跡に吹きつけるのです。

故故を「しばしば」と読ませるのが面白いなと思いましたが、
故故は「故(ことさ)ら」の意でも解釈できる、とあります。
「しばしば」を「明鏡国語事典」と「大辞泉」で調べると、

「屡、屡屡」という難しい字が出てきます。

一方「新漢語林」で「故」の熟語から「故故」(ココ)を見つけると
「②しばしば。たびたび。」という意味が載っていました。
「故故」=「しばしば」
覚えておくと、ちょっといいかもしれません。
「ここ」で引いても、国語辞典には「故故」は載っていませんから。
「故故」を調べるなら漢和辞典ですね。

五言絶句は近体詩の中で一番短い詩形です。

初心者向きかな。

「ポエテスと呼ばないで 2」で紹介した、

江馬細香の「紫史を読む」と比べると実力の違いは歴然としています。

他の詩は読んだことありませんが。

しかし自らの身の上を振り返って

「春風 東より至り/故故(しばしば)涙痕(るいこん)を吹く」

と詠めたのは玉僊ならではです。

ちょっと絵になりすぎなくらい。

自己紹介にもなっているので

お座敷で披露することもあったのかもと想像してみたくなります。

*校書とは芸者のことですが、以下のような由来があります。

唐の元槇(げんしん)が蜀に使者として行ったとき、

接待に出た妓女薛濤(せっとう)の文才を認め、校書部に任じた

という「唐才子伝」の故事から芸者のこと(「デジタル大辞泉」)。

文才のある知理姐さんにはぴったり

 

 

の言葉。