江戸時代の女性はどうやって漢詩を詠めるようになったのでしょうか。
「ポエテスと呼ばないで1」で紹介した原采蘋の場合は、

秋月藩儒原古処の長女として生まれ、「家学を受けて詩文を能くした」と

「江戸漢詩選 下」の紹介文にはあります。お父さんから習ったわけですね。

詩を書くことが家学のうちに入っていない場合、

文字を習っても詩を書くことまではしないということになるでしょう。

その場合夫から習うというケースもあります。
横山蘭蝶(1795~1815)という女性は金沢藩の重臣津田政本の娘で、

13歳(「江戸漢詩選」では年齢は数えですので1引いた数にしてあります。以下同様)で

横山致堂と結婚し(1808年)、夫の影響で漢詩をよく書くようになりました。

しかし早産のため数えで20歳の若さで亡くなってしまいます。

横山致堂(1789 ~1836)は金沢藩の家老を務める家に生まれ、19歳で家老になります。

 

さて蘭蝶の詩です。

偶作

緑窓(りょくそう)に起坐し 繍簾(しゅうれん)垂る
香(こう)動きて 合歓(ごうかん) 花は枝に満つ
一任す 傍人の疎嬾(そらん)と呼ぶに
従来学びず 時に入るの眉

刺繍された美しい簾がかかる部屋に身を起こして座ると、
枝いっぱいに花を咲かせている庭の合歓(ねむ)の木から香りが漂ってくる。
傍らにいる夫が「お前はものぐさだね」と私に呼びかけても、何も答えないまま。
もともと私は流行の眉毛を真似ようなんて思っていないのだから。

「緑窓」は女性の居室。フランス語にはboudoir(ブドワール)という言葉があり、

辞書には「(婦人用の小ぎれいな)居間、私室。閨房」という説明が出ています。それですね。
「合歓」はネムの木のことですが、

「男女の和合歓楽を意味することから、それを含意して用いられることが多い」そうです。

「傍人」は傍らの人を意味しているので、侍女を指すとも解釈できるようですが、

「合歓」の流れからは確かに夫かもしれません。

夫婦仲は良く、蘭蝶は大切にされていたようです。

蘭蝶が亡くなって2年後、

致堂は12歳の横山蘭畹(1805~1863)と結婚します。

金沢藩の重臣横山隆誨の娘です。

致堂は19歳で蘭蝶と結婚し、

7年の結婚生活の後1815年に妻を亡くし、

1817年に蘭畹と再婚し、

19年後1836年に47歳で亡くなってしまいます。

蘭畹の詩として採られているのは以下の詩です。

夫君の荏戸(えど)に赴くを送る

那ぞ耐へんや 秋意の已(すで)に蕭然たるに
況(いわ)んや離愁の捴(すべ)て前に似たる有るをや
是従(よ)り 空房 孤枕(こちん)の夢
君が馬跡(ばせき)を追ひて山川を繞(めぐ)らん

秋の気配がすっかりもの淋しくなってしまったことに、

どうして堪えられるでしょうか。
ましてあなたとお別れするこの度の悲しみは、

前の時と似ているのでなおさらです。
これからはあなたのいない寝室で、

独り寝の枕で夢をみることになりますが、
夢の中であなたがお乗りになっている馬の跡を追いかけて、

私は江戸への道中に横たわる山や川を廻りたいと思っています。

とても情熱的な詩ですね。

解説には以下のように書かれています。

「夫致堂には若くして死んだ先妻蘭蝶を哀悼する気持ちが何時までも残っていた。

それだけに後妻蘭畹には先妻蘭蝶への対抗心が少なからずあったと思われる。

蘭畹の詩集『続香木集』には、

この詩のような夫致堂に対する熱烈な愛情を誇示する詩が多く含まれている。」

妻の死後自分の詩と蘭蝶の詩を合わせて「海棠園合集」を出版しました。
致堂は蘭蝶を忘れられなかったとしても、

けっして蘭畹を嫌っていたわけではなさそうです。

というのは致堂と蘭畹、夫婦合作の「秋夜聯句」が収められているからです。

連句といえば、俳句の世界で、

五七七の長句と七七の短句をかわりばんこで詠んでゆくというものですね。

大学の芭蕉の授業で習いましたが、けっこうめんどくさいルールがあります。

漢詩にも同じようなものがあるんですね。

漢詩の場合、「聯句」という字を使うようです。
後半だけ紹介すると

間意 時に適(かな)ふ有り <致堂>
吟思 自(おの)づから狂せんと欲す
書を開きて頻りに燭を剪り  <蘭畹>
猶ほ一燈の光を供にす    <致堂>

静かな心持ちはこの季節にぴったりで<致堂>
詩興が自然に溢れ出てくる。
書物を開き、灯火を明るくしようと蠟燭の芯をしきりに切って  <蘭畹>
なお二人の明かりを分かち合う<致堂>。

横山致堂、けっこう幸せな一生だったんじゃないでしょうか。